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(まなぶ。

今夜の夕食は、次男特製のハンバーグ。

これで次男がハンバーグを作るのは、3度目かな。

1回目より2回目、そして今日の3回目のハンバーグが今のところ一番おいしいかったな。

作るたびに、何らかの彼なりの工夫があり、おいしくなっている。

柔らかすぎたり、味が濃かったり、焼きすぎたり、色んなハンバーグを作り、彼は自分なりに学び研究している。

彼は料理を作ることを実に楽しんでいる。

はたからみているとよくわかる。

いいはたらきをしているんやな。


自分で学びたいことを学んでいるときが一番生き生きしているな。


彼にとって、料理は自分が今したいこと、できることなんだな。

そのために自分で考え、調べ、工夫している。

それが本来の学ぶということなんだ。

もともと、学びたいという思いがあって教育、学校というものができたのだ。

思いが先で、形ができただけのこと。

それを今は、形を維持するためになっている。

だから、もともとの思いをどこかに忘れて、置き去りにしている。

当たり前、常識という言葉で自分を誤魔化して、世の中の流れるままに、教育を受けたり、学校に行ったりしているだけになっている。

次男の学校へ行かない選択は、彼の意志だ。

世の中に流されることなく、自分の正直、素直な表現をしているだけなのだ。


彼は、今もいつも学んでいる。

学びはいつもある。



誰でも、学ぶ教材はすべていつも用意されているんやな。

いつもどんなときも、愛んでいるんやな。




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tag : まなび 学び ハンバーグ 学校 教育

(がっこう。

我が家の近くにある「京都イオンモールハナ」に買い物に行った際、ランドセルを買いに来ていた親子とおばあちゃんらしい人がいた。

おばあちゃんが男の子に「どのランドセルがいいか」を聞いていたが、男の子は知らん顔、何か不機嫌そうにしている。

そして、「俺、ランドセルなんていらんもん」と言い放っていた。

するとお母さんが、「何言ってんの、ランドセルなかったら、学校行かれよ、4月から小学校行くんよ」
男の子は、「俺、学校行かへんもん、だからランドセルいらん」
おばあちゃんが「もう、この子は何言ってんの、学校行かなあかんのよ、みんな行くんやから」

・・・と、まあこんな会話がされていた。

男の子は「学校にには行きたくない、なんで学校にいかなあかんのか」と思っているようだ。
それを必死で説得しているお母さんとおばあちゃんであるが、どれも男の子の納得する答えができないでいた。


それは当たり前だなと私は思った。

私もそうだったように、何で学校にいっているかなんてホントのところわかんなかった。
私の子どもたちは、幸い(?)にもこの男の子のような、考えをしてこなかった、いやさせなかったので、このことを深く考えることもせずに、今に至った。


今は、「うーん、何でみんな、同じ年齢で区切って学校に行かなあかんのやろか」って、この男の子のように素直に感じているのだ。


先生をやっていたときには、学校自体に何も疑問は、持たなかった。
私なりに、子どもたちに、色んな知識を教えることに一所懸命やっていたから。
でも、色んなことを教える中で、色んな子どもがいて、それぞれのペースがあるのに1年毎に次にあがっていくことに、無理、無茶があるなと思っていた。

けれど、システム上、そうしなければならないから・・・。あきらめていただけ。
それを、「いいとは思っていない、諦めであった」
「しかたない、どうしょうもない、どうすることもできない・・・」
諦めの教育をしていたのか・・・。

塾のときは、それぞれのペースにあわせて、知識を教えていけたが、学校というベースがあるので、子どもや親が学校と極端に放れることをいやがった。
私は、お客である子どもや親の要望を聞いてしまっていた。
ここでも、諦め、自分を誤魔化した諦めだ。


今までの学校のシステムで何も問題ないのであったなら、今のままでいいのかもしれないが。
今学校が、教育がおかしいと皆が感じて、思っている、ここらで皆が真剣に考えないといけない。

私が感じていること、思っていることは必ず何処かで、誰かが感じて、思っている。
それを一人一人が声にしていけば、変わる。


なんで、同じ年齢になったら同じように学校にいかなければならないのか。
それが、平等、自由というのでしょうか。

それぞれのタイミング、リズムで自分に必要なことを自分で選び、学んでいけることのほうが、ずっと、自然に平等、自由なことだと思います。


今、色んなことが混乱している、このときがチャンスなんだと私は思います。




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tag : 教育 学校 男の子 ランドセル 京都イオンモールハナ 自由 平等 混乱 チャンス

(責める。

私を育ててくれた叔母は、8年前に病院で亡くなりました。

叔母は、初期の肺がんが見つかり、がんを取り除く手術をしました。

私は、70歳と言う年齢のことも考えて
「手術はしなくてもいいのではないか」
がんがなくなったとしても、手術による叔母の体への負担を考えると後のケアのほうが不安でした。

叔母は、肺がんが見つかった時点で、生活に支障があったわけではなかった。
太りすぎのために腰と膝が痛くて、歩いたりするのが少し不自由なぐらいで、食欲もあるし、身の回りの自分の事は自分でできていた。
何も問題は、なかった。

私は術後、「今と同じ生活ができるとはかぎらないことを叔母に告げて、何も無理して手術することはない」と言いました。

でも結局、叔母は自分で手術することを選びました。

叔母の手術は成功して、がんは一応完全にとれたようでした。
が、術後傷口が化膿してしまいました。
今思うと、院内感染だったようですが、その時点ではなんともいえませんでした。

化膿が治らず、傷口がふさがらず叔母は見る見る衰弱して自分で呼吸できなくなってしまいました。
自発呼吸できないので、のどを切開して機械によって呼吸をなんとかさせてもらっている状態となりました。
なんとか、意識がもどり、傷口も薬が効いて治りつつありました。

そんな時、叔母が危篤状態になったとの連絡があり、驚いて病院にいくと、2,3日前に会話はできないものの笑顔が出ていた叔母の意識がなく、植物状態になっていたのです。

それは、早朝に気管につけていた管がつまり、呼吸困難になり心肺停止状態になったのでした。
なんとか、一命は取りとめましたがおそらく意識は戻らないだろうとのことでした。

私は、なぜそんなことになったのかを病院に聞きました。
病院は、気管が詰まっていたことに気がつかず、手当てが遅れたことを認めました。

それから叔母は2年余り、この病院で意識が戻る事なく亡くなりました。


「私は、なんでこんなことになったのだ。」
「病院は、医者は、何をしていたのだ。」
「手術がうまくいってるのに、病院の衛生管理や看護ミスのために叔母がこんな目に遭ったのだ。」

私は、自分の思っている疑問を病院にぶつけ、なぜこういうことになったかを問い詰めました。
このとき、私には怒りがありました。
病院や医者に向けた怒りです。

「病院の責任だ」とも思っていました。

けれど、同時に私は自分のことも責めていました。

「あの時、手術をするのをなんでもっと強くとめなかったのか、完全看護だからといってなんで病院任せにしてしまったのか・・・・。」

次々に「自分が悪かったのでは・・・こうしておけばよかったのでは・・・・」という思いが出てきました。それと同じように、病院への責任追及の思いも強くなり、私の心身は疲れきっていました。

そんな時、病室で看護婦さんや先生が意識のない叔母に話しかけながら、とても優しく、普通に接しているのを見たのでした・・・。

私は「いったい何やってんだか・・・」と力が抜けました。

私は叔母のためと言いながら、病院の責任追及にばかり目がいき叔母のことなどそっちのけだったのでした。

私は、「私がもっと親身に叔母のことに関わっていたならこんなことにならなかったのではないか。」という、罪悪感がありました。
それがあることを知っていて、わかっていて、それをなんとかかき消そうと病院や医者に怒りをぶつけていたのでした。

すべてがそうだったとは思わない。
けれど、自分にそういう気持ちがあったのは事実でした。


私の怒りは、叔母のためだけでは、なかったのでした。

私は、私がしたことが間違っていたかもしれないという罪悪感が責任追及へのエネルギーになっていたのでした。

私は、病院を責めるのと同じだけのエネルギーで自分を責めていたのだ。
だから、苦しかった。
その苦しみを病院や医者に向けていたのでした。
けれど、それをし続ければ続けるほど自分が苦しくなっていたのです。

私は、何か出来事が起こったときに何か、誰かに責任追求したり、悪モノさがしをし続けるというなは、実の所自分を苦しめているのではないのかと思う。

私がそれに気がついてから、病院との話しあいは変わった。

言い出せば、きりがない。
「・・・たら、れば」の後悔ばかりがでてきたが、私はそれをすべて受け入れ病院との話し合いをしました。
病院は過失を素直に認め、今後の看護も続行するという結論を出しました。

そして最後まで、叔母は手厚い看護を受けて、意識回復はなかったけれど、とても穏やかに過ごせたのでした。



私と病院との話し合いは、最初から何もかわらない内容だった。

ただ、私が自分を責めている、罪悪感をもっているということに気がついてからの話し合いは、私自身の素直な正直な気持ちを病院側に伝えたことによって、病院側もなにも隠すことなく、真実を言ってくれたと思うのです。

私は、叔母がどうしてこのような状態のなったのかを知りたかっただけだった。
そしてこれからどうすれば一番叔母にとっていいのかを病院と話し合えばよかっただけだったのです。

それが、結果的には、病院も叔母も私もすべてが満足いくことになったのでした。

何か悪いと自分が思う出来事が起こったとしても、それは本当の所、悪い良いということがない。

誰かを責めたり、悪者にするのは、自分自身を責め、悪かったのかも知れないという罪悪感の裏返しのように思うのだ。

相手を責めたり、責任追及する心を持ち続けていると言う事は、自分を責め続けることになり、自分の苦しみを増やすことになると思うのだ。

そこからは、何も始まらないし終わりもしない、堂々巡りがつづくだけなのだ。

抜け出すには、まず自分が自分を責めるのを止めてみることだ。

人を責めてるつもりが実は自分を責めている。
責めることもないし、責められる事もないのが真実なのだ。




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テーマ : 出来事
ジャンル : 学校・教育

tag : 叔母 院内感染 気管 肺がん 病院 切開 自発呼吸 手術

(はたらき

先日は勤労感謝の日やったらしいが・・・・。

勤労感謝の日って何?

誰が何に感謝するの?

働く人に感謝・・・家にお金を入れてくれて生計を維持するために働いてくれている人、つまりは父親に感謝・・父の日か。今は母親も働いている家庭も多いな。

父さん、母さんにまあ~とりあえず感謝しとくんかいな。


働くといえば、みんな働いている、あえてこの日を作って感謝しようなんて・・・なんで思ったのかな?

「働く意欲がなくならんように適度にいい思いさせとこか、感謝しとこか」ということかいな。」

感謝してるよって毎日働いてや。



で・・・・。

なんで、働いているのだ。

働くとは、何なのだ。

好きで働いている人はおらんて・・・。
なんでやの~?
おかしいな~?


「働かざるもの食うべからず」

働かないと食べてはいけない。
食べるというのは、食べる物。
食べる物を買うためには、お金がいる。
お金がないと食べ物が買えないから、働く。

食うために働いている。

食うために働けよ。

お金を稼ぐために働いている。
お金を得てないのは、働いているとはいえないのか。

子どもや専業主婦は、お金を得てないから働いてないのか。

子どもは、将来働くために教育を受けさせて、出来るだけ高収入の仕事に就けるようにするために投資している・・・。

専業主婦は、洗濯や掃除、料理と他の人に頼めばお金がかかることをただでやってくれているから実質お金を稼いでいるのと同じことだ・・・。

お金がいらなければ働かない。お金がいるから働いているだけか。
お金がいらなくなれば働かなくなるならば、お金のためだけに働いていることになる。

働くとはエネルギーの交換なのだ・・・互いに換える。
働くとはエネルギーの交換なのだ・・・互いに感じあう。
働くとはエネルギーの交歓なのだ・・・互いに楽しむ。

すべてが働くことだ。すべて働きがあるということだ。
お金のためだけに働くというのはおかしいことだ。

どんなときも、みんな働いているのだ。
働いていない人は、いないのだ。
お金を入ってこなくても、働いてている。働き続けている。
生きてることが働いていることだ。


働いてお金を得るというのは、副産物にすぎない。
お金のために働くというのは、お金に支配されることを自分で選んでいるだけだ。

お金がすべてを操ることになっているのだ。
いつからそうなったのか。
いつからそれを受け入れたのか。


本当にお金がないと生きていけないのか。
これを本当だと信じて働くのも自由だ。
それは嘘だと信じて働くのも自由だ。
すべて自分に任されていることだ。
誰も知らない、わからない。
自分が決めれることだ。


お金がないと生きれない。働かないと生きれない。
そう思わされて働かされているだけなのだ。
働かないと困るのは自分ではない。それを操っている人がいる。働かないと困るのは自分ではない。

働かない人は、ロクな人じゃない。
働かないなら、食うべからず・・・。
そう思わされて働くことを選んでいる。



はたらく・・・傍を楽にして、自分も楽になることだ。
はたらけば働くほど自分が苦しくなっているのは、おかしいことだ。

何のために、働いているのか。

働かされているだけだ。

いつまでも働かされているのを選んでいるのも自分だ。

本当ににそれでいいのか。

働く働かないの選択は自分ができるのだ。


もっと豊かにもっとたくさん
もっと、もっと、もっと・・・・。

際限なく働かされる。
お金のために働かされる。

これを選択しているのも自分だ。

働く・・・自分の働きは自分が決めるのだ。

そう決めたなら、何も言うこと、文句はないのだ。

働くことが悪いわけではない。
働くことを選んでいる自分の心に何があるかなのだ。

働かされているのではない。
自分の働きを真っ当していくだけなのだ。



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tag : 働く エネルギー 交換 交歓 交感

(『聞く屋』  参上!!

今日の『聞く屋』 は

烏丸四条交差点付近 に  13時から16時ごろまで    参上



081003_1947~01

 「いちみ」があなたの何でも聞きます。

どんなことでも話したいことをどうぞ。
何でも聞きます。あなたの話したいことを離して下さいね。

あなたのお気持ちいただきます。
なんにでも効きます。良薬は口に苦し・・・効果は絶大ですよ。

ご利用は、御早めに。
                         

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tag : 聞く屋 参上

Dプロフィール

 林 一美

Author: 林 一美
 昭和35年4月生 東京都出身
 大阪育ち 京都在住

幼稚園、小学校講師、塾経営をやってきました。
なにをしても、どこにいても、私の世界は、私の世界。

おかしいと思ったことは、おかしい。
変なことは、変や。

誰が何と言おうと、私は私のみちをいきる。
それが私にできる。ただひとつのことや。

実は誰も何も言っていない。
すべては、私が言ってることやんか。

私はあんた、あんたは私。

さかさま。おしゃかさま。
かみもほとけも。みな、おんなじ。

まっさかさまの、だいどんでんがえし。

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