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(たんじょう。

やっと、抜けました。
表向きの訳は、長男が引いてきた風邪を私が、引き受けたから。
表があるから、裏がある。
裏向きの訳は、なんだ。

4月7日は、私の戸籍上の誕生日だった。
この日から、風邪を引き、パソコンに向かうことができない状態だった。

私は、戸籍上、49歳になった。
戸籍上と言っているのは、私が本当にその年月日に生まれたかどうかは、わからないから。
私の生まれた時のことを知っている人が、今は誰もいないから、真実はわからないが何も問題はない。

私は、母ひとりによって守られ生まれ育った。
今更ながらそれを感じる。

私は、実際自分にその当時何が起きていたのかを知ることはできないが、周りの人達の話や母の状況から見ての推察であるが。

私が生まれるのを望んでいたのは、母だけだった。
母は、誰にも私がいることを告げずに、私を産んだ。
妊婦検診も一度も行かず、産気づき、近所の産科に駆け込み私を産んだのだろう。
幸い、母と私の周りの人達は、そんな私たちの状況を責めることも、哀れむこともなかった。
他の人もそれぞれが自分のことで必死で生きていた時代だった。
ただ、お互いが助けが必要なときは、何も言わずお互いができることを協力しあっていた。
それが、当たり前だった。

医療も行政も今のようなシステムができていなかった。
だから、私は6年間、私の存在を知られずに、無事育つことができたのだ。
そう、無事に。
誰にも邪魔されずに私は、母ひとりに育てられた。

今は、すべて管理されている。
それは、いいことのように思っているが、それはどうだろうか。

システム、法律、規則というのは、ある一つの見方からだけ見て、こういう風にするのが当然だと決め付けてできているだけにすぎない。
それぞれには、それぞれの状況があるのに。
ひとつの枠の中にいれ、管理しようとしているだけに見える。
これは、管理しているほうにだけ問題があるのではない。
昔、私が生まれたときには私のような子がおそらくいたであろう。
戸籍も今ほど、管理されていないので生まれていても生まれていないようににもできたりもしたであろう。
それが、よくないと「口減らし、間引き」などという言葉が残っているが、子どもの命を親や周りの都合で、亡き者にしようというのをなくすために、管理、監視するようになったのだ。
確かに、それによって良い面もあっただろうが、私の場合を言えば、今の私はここに存在しないかもしれない。
そういう管理、監視システムの中であったなら、私はこの世に生まれていなかったかもしれない。
生まれたとしても、私が過ごした母との生活は、なかったであろう。

母は、今のシステムから言うと、子どもを育てられる状況ではなかった。
身体も弱く、職もなく、すべてにわたって、私を育てることができる状況ではないと判断される。

だから、今のシステムでいくと、私は保護すべき乳児だったであろう。
よって、私と母は、行政の管轄、児童福祉法で、引き離されていたかもしれないと思う。

けれど、私と母は、6年間何の管理も監視もされずに無事過ごすことができた。
私を、母が守ってくれていた。

今の児童福祉法に照らし合わせると、母は育児というものをしていない状況なのだ。
けれど、私は母といることだけで幸せだった。
もし、今のシステムが私に適用されていたなら、私は今ここにいないかもしれないと思うのだ。

システム、法律、管理体制が悪いと言っているわけではない。
それはそれで必要なものだ。
けれど、それをつくった私たちがどう活用していくかなのだ。
法律、規則、管理体制に私たちが支配されて動けなくなっている。
自分たちでつくったものに支配され身動きとれなくなっている。

つくったシステム、法律、規則がおかしい、不都合な部分が出てきたなら、変えればいいだけのこと。
それに、何も障害はない。
変えないことに、むしろ障害があるのだ。

変えることで、威厳、プライドが傷つくこともない。
誰からも責められない、責めることはできない。

違っていることは、変えていけばいいだけのこと。
誰もが間違っていること、過ちを認めることを避けようとしている。
責任を取りたくない。
責任追及せれたくない。
誰もが怖れているのだ。

何も誰も、悪くない。
そして、何も誰も、良くない。


ただ、そうやってきたことは違っていた、間違っていた、過ちだった。
と、認めて変えていけばいいだけのこと。

それを責任をとれ、損害賠償だ、などと誰もが言い出すから誰も、認めることを避けようとするのだ。

自分がやってることを、誰もがやっている。
自分がやめない限り、その状況は何も変わらない。


お互いがお互いを認めて、変えていけば、責めたり、責められたりという構図は消滅する。
自分が責める、責められている。
すべて、自分がしていること。


システム、法律、規則をつくった、行政、政府を責めることはできない。
それを作らせたのは、自分である。
誰も責める必要はない。

システム、法律、規則というある一つの枠にいれるということは、できない。
この事を、知るために、分かるために、今まで必要だっただけに過ぎない。




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テーマ : 出来事
ジャンル : 学校・教育

tag : 誕生 システム 児童福祉法 管理 監視 法律 規律

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Dプロフィール

 林 一美

Author: 林 一美
 昭和35年4月生 東京都出身
 大阪育ち 京都在住

幼稚園、小学校講師、塾経営をやってきました。
なにをしても、どこにいても、私の世界は、私の世界。

おかしいと思ったことは、おかしい。
変なことは、変や。

誰が何と言おうと、私は私のみちをいきる。
それが私にできる。ただひとつのことや。

実は誰も何も言っていない。
すべては、私が言ってることやんか。

私はあんた、あんたは私。

さかさま。おしゃかさま。
かみもほとけも。みな、おんなじ。

まっさかさまの、だいどんでんがえし。

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