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(親子の会話

今朝、我が家は全員でリビングに集まっていた。
各自が各自のペースで生活しているので同じ時間、同じ場所にいることを強制していないが、今朝のように自然とみんなが集まることがよくある。

各自が思い思いのことを話している、聴いているのだ。
とても賑やかである。

これが我が家では今、ごく自然になっているが3年前までは、違っていた。
確かにみんな揃っての朝食、夕食で親子の会話らしきものがあった。
形は今も3年前も変わらないのだ。

けれど、3年前は自然とそうなったのではなく、なかば強制的に全員揃うようにしていた。
決め事、当たり前、常識としてみんなで一家団欒ごっこをしていたのだ。
みんながそうしたいとは思っていたのではないのだ。親が無理やり集合させていたのだ。

今思えばその時の会話は、中身のない、本心を言う状態ではなく、ほんと上っ面の当たり障りのない会話だった。
私が子どもに不満やお小言をいうだけで子どもからの自発的な話しは、ほとんどなかった。
話しのキャッチボールがなかった。いや当時はそんなことにも気づかずにいた。
その会話が親子の会話だと思い込んでいた。
今と比べるまでは、それがごく自然な形だと思っていたのだ。

子どもは、学校での出来事などを話してはいたが、私は子どもの話しを聞くことよりも親の言いたいことばかりを押し付けて言っていた。
いつも子どもを抑制していた。
子どもの言うこと、やることにいつも口出し、手出しをしていた。

子どものことを思って言ってると思い込んではいたが「実のところやっぱり親である自分の立場が悪く思われないようにしていた」というのが正直な気持ちであったと今は思う。

当然、子どもが大きくなり自分の主張をするようになってくると、こんな親に何を言っても否定される、だめだしされると思い、だんだん自分の考えを話さなくなってきていた。
ほんと、一家団欒の親子の会話なんて形だけのことだった。

こんな状態だったが、わが家は標準的ないい家族、親子の会話も十分していたと思っていた。
実際、取り立てて大きな問題があったわけではなかった。
多くの家庭がそうであるように、外からみると何も問題がない家庭だった。

けれど家族がバラバラになっていた気がする。気がついたときには、かなり重症な状態だ。
子どもが大きくなるにつれてギクシャクしている親子関係があったのだ。


色んな出来事(問題)が起こることによって気づく場面がたくさんあったにも関わらず、気づかないでいた。親子の会話が一方的に親が子どもに親の考えを押し付けるだけになっていったのだ。

親が子どもの言うことを聞かないのだから、子どもが親の言うことを聞くはずがない。
当たり前なことだ。

私の知らない子どもの思い、考えがあった。それに気づかず、見過ごしていた。
一緒に生活しながらだんだん子どもの心がわからなくなっていた。
親子の会話する時間をいくらつくったところで、子どものことを観てない聴いていない会話など何の意味もないことだ。子どもが話していないのではない、親が聴いていないのだ。

そう、あの頃は「こうあるべき、こうしておくべきだ」が先にたち、子どもの気持ちや思いを受け止める余裕がなかった。
教育費も増えていき、教育費のために私の働く時間が増え忙しくなり、ますます子どもとの距離が広がっていっていた。
子どもの話しなど聴く心の余裕がますますなくなっていた。日々いっぱい、いっぱいで過ごしていた。
私が一生懸命働いているのに、子どもはそんなことどこ吹く風で勉強しない。成績も上がらない。
学校でのトラブルも増えていた。
そして、子どもには親の言うことを聴くことだけを強制していたのだ

いったい私は何をやってんだか。自分の都合でやってることだ。子どもが望んでいることではない。

子どものためと思ってやってることが「うまくいかないのは、子どもが悪いからだ」と子どもに八つ当たりしている。
おかしな話である。
こんなばかなことを私は、やっていたのだ。
すべては親である私がやっていることだった。
子どもがどうのこうのということではないのだ、すべては私がしていることだったのだ。


だから、いくら毎日食事を一緒にしたって、会話の時間をたくさんとったって、一緒にいないのと同じ、話してないのと同じだ。
子どものことがわかるはずもないのだ。
わかろうとしていなかったのだ。

私は、子どものためといいながら、自分の親としてのプライドや世間、義父母の評価を気にしていた。
子どもが世間からはみ出ないように、勉強させていい学校といわれているところに入れて、いい会社にはいれるようにすることを優先して考えていた。
先のことを考えている風に見せかけて、今のこと、今の子どもの状態を全く観ていなかったのだ。


親は、子どものために色々考えたり、思うことは当たり前だ。
けれど、それはあくまでも親の考えであり、思いである。

どうしていくかは、子どもが考え、選んでいくことだ。
子どもから自分で考え、選択することを奪うことはできない。

親子の会話が一方的な親の押し付けになってはいけないのだ。
親子の会話はいつでもお互いのキャッチボールになるのが当たり前だ。
お互いが自分の素直な正直な気持ちを話すことができて当たり前だ。

親の今までの体験や経験を話し、後は子どもが自分で考え、選んでいけばいいだけだ。
話したことは、参考にはなるかもしれないがあくまでも一例にしかすぎない。
ただ、色んな選択があることを示し、子どもが自分の考えで選べるようになるまで親は、じっと俟って(まって)いればいいだけだ。

親がラクをするために、親の今までの常識を押し付けることをしてはいけないのだ。
親の結果が子どもに適応されるとは限らないのだ。

子どもが自分で考え、自分で選んだことを最後まで責任を持ってやっていけるように見守っていけばいいだけだ。
子どもが必要としたときだけに親は自分の今までの経験を話していけばいいのだ。
後は、じっと子どもの話しを聴くことだ。

手出し、口出しは無用だ。

今、子どもに起きた出来事を親の考えや選択で避けることが出来たとしてもそれは、回避しただけに過ぎず、必ずまた同じことが戻ってくるのだ。
戻ってきたときには、最初に起きたときよりも、さらに大きい出来事となって子どもに降りかかることになるのだ。
避け続けることは出来ないのだ。

すべては、今まで避け続けて結果が今の世の中で起こっていることなのだ。

今、親子の関係や会話を戻そうとするならば、避けずにすべてを受け入れ、起こる出来事をただじっと見守り続けることをしていくだけだ。


それを貫く辛抱が親には必要なのだ。

子どもを信頼すること。

自分を信頼することだ。



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テーマ : 子供の教育
ジャンル : 学校・教育

tag : リビング 一家団欒 自然 信頼 辛抱 親子の会話 手出し 口出し 回避 責任

コメントの投稿

Secre

空飛ぶミケ猫さんへ

親と子が互いに素直に正直に思いや考えを出し合えることが大切ですね。

それぞれの家庭でやり方、形があっていいと思います。

待つ姿勢

親の都合や親のペースだけで進めないで、
子どもの様子を見ながら進めていく必要がありますね。
親自身の考えを押しつけるより子どもが考えを持ったり行動するまで“待ってあげる”ことができるといいなぁと思います。

うちは朝夕のご飯の時は全員(といっても4人ですが…)揃うまでは“いただきます”をしません。強制しているかと言えばそうなるのかもしれませんが、当然だと思うし、いつのまにかそうなりました。

テレビ見ながら気楽にいろんな話が出ておもしろいです。

ヘットマンさんへ 

子どもであってもそれぞれの考えや思いがあるのです。
親はそれを受け止めていくだけですね。

親だからといって子どもを支配することはできないのです。

お互いの思いや考えを渡しあえることが人としてのはたらきだと思います。

その通りです。

私の母親も、学校、受験と言わなければ、わたしももっと伸び伸び生きれたでしょう。

しかし、このブログを見ているとそれも自分の試練と思いました。

今は自分が親なので、二度同じ事を繰り返さぬよう、

個と個であるという対応をしたいと思います。

また、この教訓は経営にも使えるものと感じました。

勉強になりました。

おはようございます。

親が子どもの話しを聴かない、辛抱できないのは、子どもの責任ではなく親が早くラクになりたいがために、急いでいるにすぎないのです。
親の私のことをすべて子どもに責任転嫁していただけなのです。

本当の意味で親が自分のことを真剣に考えていくこと。子どもはすべて観ています、聴いています。
親が自分に素直に正直に生きている姿を子どもに見せていくことが大切なんだと思います。
親が世の中の損得勘定や世間の価値判断に翻弄されていては子どもの話しなどわかりっこないのですよね。

子どもことはすべて自分のこと、世の中のことはすべて自分のことなんですよね。
分けることは、できないのです。

私たちはいつも巧妙に自分だけ外します。
自分が外に向かって思ったこと、感じたことはすべて自分のことだということなんです。
何一つ誰かを責めることは、できないということだと思います。

そう、その通りだと思います。
気付いてない親が多いと思います。
私も子供に問題が起きるまでは全く気づかず、うちの子は何も話してくれないと思ってました。
こういう事に気付けば親も子ももっと楽になるのにと思う。
Dプロフィール

 林 一美

Author: 林 一美
 昭和35年4月生 東京都出身
 大阪育ち 京都在住

幼稚園、小学校講師、塾経営をやってきました。
なにをしても、どこにいても、私の世界は、私の世界。

おかしいと思ったことは、おかしい。
変なことは、変や。

誰が何と言おうと、私は私のみちをいきる。
それが私にできる。ただひとつのことや。

実は誰も何も言っていない。
すべては、私が言ってることやんか。

私はあんた、あんたは私。

さかさま。おしゃかさま。
かみもほとけも。みな、おんなじ。

まっさかさまの、だいどんでんがえし。

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