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(親と子の関係。

親と子は、いつも上と下という上下関係でいる。
この関係が続いている限り何も変わらない。
本当は、上下関係はないのだ。
親と子の関係は、対等なのだ。


昨日、娘が深夜2時を過ぎてもバイト先から帰宅しなかった。バイトは22時には終わっている。
何の連絡もないので、私の方が電話したが留守電になったので「はよ、帰って来んか~!何してる!!」と入れておいた。

20分ぐらいして帰宅した。どちらも何も言わなかった。
私は、娘が帰ってくればそれでいいし、娘はちゃんと帰ってきたのだから何も今は言うことはない。
私も娘も眠たいのですぐに寝た。

今朝、バイトが10時入りらしく娘は、自分で起きていた。
昨夜のことは、娘が「電話くれたけど、なんか用事?」と聞いてきたので、私は「遅くなるときは、電話してや、心配してるからな」と言うと、「ちゃんと帰って来るし、朝はちゃんと起きてバイトいくし・・」と言っていた。
確かにそうやね。自分でとった行動に責任とってるよね。


朝は、前日いくら遅くなったとしても私は起こさない。
娘に限らず子どもを私が起こすことは、今はない。
自分の責任で起きている。
自分の事は自分で決めているのだ。
前日どんなに遅くとも朝、自分で起きる。自分のことだから当然だ。
ただ頼まれたときは、起こし役を引き受けることもあるが、それも私が起こして起きなければ自分の責任であると言ってある。

3年前までは、私がすべて起こしていた。私が彼らが遅れたりするのがいやだったから、彼らを起こしていた。
早く起きるために早く寝ることも強制していた。
だから、その当時の私の一番発していた言葉はおそらく「早く早く・・・。」だったように思う。

私も忙しかったし、子どもは急がされてばかりだった。何をやってんだか・・・。

子どものためがなかったとは言わないが、やっぱり私がいやだった。結局、私のためだった。
私が周りの人に迷惑をかける、つまりは私が悪く思われるのがいやだった。
遅刻する時間にルーズな子どもにさせたくなかった、いやそんな子どもの親だと思われるのがいやだったのだ。周りにどう思われるかを気にしていた。すべてに対してその視点で考えていた。

私は、子どもの意思、考えなどをすべて無視していた。子どもから考えることを奪っていたのだ。子どもがどうしたいかなど関係なかった。

今は違う。
すべて子どもに任せている、子どもが決めている。
私も、自分が出来事に対して感じているまま、素直、正直に向き合うことに視点を合わせている。周りがどう思うかは、関係ないのです。
親としての責任を放棄しているのではない。責任はすべてとる。私は子どもを信じているだけだ。


今回のことでは、私は深夜帰る事が悪いことだと決め付けていない。
今までの常識で出来事の○、×判断はしない。
「常識で考えて、深夜まで帰らないのは善くないことだからやめさせるのが親としての義務でしょ」といわれるかもしれないが、私はそうは思わない。
それも娘の体験、経験することなのです。娘は、やってみて自分で確かめているのです。

深夜だから危険、昼間なら大丈夫、家にいれば安心、大丈夫というものではない。
私は、子どもにずっとついていれるわけではないし、たとえついていたとしても、安心、大丈夫だとはいえない。
娘の選んだ行動を止めることは、今の娘の体験、経験を私が奪うことになる。
娘は自分で考えて行動しているのです。

私のとった行動は3年前と形は同じではあるが、私はその出来事に対しての心、視点がちがっているのです。
けれど、親としていつもなら帰宅している娘が帰宅しないことに対しての心配はある。
ただそれだけだ。
だから、娘が無事に帰宅すればそれでいいだけなのです。

そして、今後の行動で私が思っていること「遅くなるときは、電話をしてほしい」ということを娘に伝えればいいだけである。
選択は、娘がするだけだ。


親と子の間には、色々な出来事が日々ある。

それを親が自分でどう感じ、それを正直に素直に表現していくだけのことです。
子どものことではない。出来事は、それを目の当たりにしている親のことなのです。
今、起こった出来事を親がどう感じ、どう捉えているかに視点を向けるためのものなのです。
子どもの問題ではない。

子どもが色々体験しようとしていることを事前に止めることなく最後まで看守る。
自分の身を守るために、子どもの経験を奪ってはいけない。


先に手を指し伸べて親がラクになろうとしない。
子どものためではない、親がラクになるために子どものやることに制限、支配しているだけのことだ。
子どももまた親の弱みを利用して、使っているにすぎない。相互依存である。
気付いた親がそれをやめなけらばいつまでも続きます。


本当の親の愛は、すべて子どもがすることを看に止めて、最後までやらせることだ。
それは、自分の体験、経験から「それをしたらこうなってしまうかもしれないと思った」としても、辛抱する。親は、子どもを最後まで信抱、信じて、抱くだけだ。

親は、それを避けないで俟っているだけだ。

世の中の常識で考えて善くないことをしたとしても、親はその出来事に○、×つけずに、子どもを看まもることができてこそ親といえる。

自分の身を守るために、子どもの行動をやめさせたところで、何も変わらない。
子どもは親をいつも観ている、知っている。

いつまでも親が殿様で、子どもが家来、子どもが殿様で、親が家来であってはならない。
そんな関係はおかしいのです。
だから今、親子関係がおかしいのです。
これをやめない限り今の世の中のおかしいことが続きます。
親子関係は、社会の関係、すべての関係に繋がっているのです。

子と親は、お互い対等です。すべて人は、対等です。

真(信)の親子関係に気づく(築く)ために「おやこ屋」で話しませんか。
今、あなたの体験、経験してきたことをすべて教材にしてあなたのステージを創めるときです。



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テーマ : 子供の教育
ジャンル : 学校・教育

tag : 親子 対等 台頭 体験 経験 出来事 殿様 家来 常識

コメントの投稿

Secre

いつもコメントありがとうございます

親が、おや?おや~?になっているもんね。
海のいるかさんみたいに気がつく人がどんどん増えていくといいですね。

同感です!!

私も最近になってようやくその考えにたどりつきました!
ホント、その通りなんですよね。

子供のためと言いながら
本当は自分自身の見栄やらそういうもののため。

信じるということは
お膳立てをして
“こうしてくれる”事を望むのではなくて
子供自身がもってる生きる力を
信じ、どんな時でも、その子が決めた事に
口出しをするのではなくて
見守っていけるということなんですよね。

私の場合、まだ手をだしたり
口を出したりしてしまう時がありますが
なるべく本人に任せていけるようになりたい(子供がじゃなく私が)と思っています
Dプロフィール

 林 一美

Author: 林 一美
 昭和35年4月生 東京都出身
 大阪育ち 京都在住

幼稚園、小学校講師、塾経営をやってきました。
なにをしても、どこにいても、私の世界は、私の世界。

おかしいと思ったことは、おかしい。
変なことは、変や。

誰が何と言おうと、私は私のみちをいきる。
それが私にできる。ただひとつのことや。

実は誰も何も言っていない。
すべては、私が言ってることやんか。

私はあんた、あんたは私。

さかさま。おしゃかさま。
かみもほとけも。みな、おんなじ。

まっさかさまの、だいどんでんがえし。

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