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(M-1・・・ひとり万歳(漫才)

先日、毎年恒例になりつつある、「M-1グランプリ」なるものを見た。

「M-1グランプリ」とは、デビュー10年未満の漫才をしている人が、5000組以上が参加し、面白さを競い合うものだ。

参加している人の中には、すでに売れてる芸人さんもいれば、全く売れてない、漫才を続けるために他のバイトをしながらやってる芸人さんもいる。


私はこれを見ながら、「漫才って、人生と同じやな」って思ったのだ。

漫才は、「つっこみ」「ボケ」があって、最後には「おち」をつけるパターンが多い。

生きていく中で、いろんな出来事が起こる、これがつまり「つっこみ」

そして、その出来事に対していかに「ボケ」れるか、自分なりの答えを出す。

その「ボケ」を出すためにいかに「おち」をつけるか。

つまりは、おちつけるか・・・落ち着けるかである。。。。

出来事「つっこみ」にいかに「おち」ついて「ボケ」れるかということだ。。。

M-1・・・人生、ひとり万歳(漫才)をやってるようなもんやな。。。

「自分のねた(人生)」は、自分で創っていけるちゅうことだな。。

自分次第で面白くも、可笑しくも、こけることも、統べる(スベル)こともできるんだな。

人生、逆(ギャグ)の連続や、おちつけ~!





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tag : M-1 漫才 おち ボケ つっこみ グランプリ

(安心、安全、有利は、変か~。

長男は京都に来てから、自転車屋さんでバイトをしている。

長男は高校には、入ったのだが1年の2学期半ばでやめている。
長男がすべて決めてきたことだった。

親としては、高校ぐらいは出とかないと社会に出たときに今までの常識から考えると不利になることを説明はしたが、最終的に決めるのは長男だと思っていたので、長男の決断に同意した。

中退後バイトを始めた。
洗濯屋さん、パスタ屋さん、回転すし屋さんと1年半の間に色んな体験をしている。

そして、今は自転車屋さんだ。
手先が器用だし、機械もんが好きだったことから、今のバイトはあっているようだ。

自転車が好きになり、「自転車オタク」になりつつある。
自分で気に入ったパーツを購入し、オリジナルの自転車を作っている。

店のオーナーにも評価されているらしく、それとなく「いづれは社員にならないか」という話しもきているらしい。

一般的にはありがたい話しなのだが、長男はそんなことどっちでもいいようである。
私も長男と同じである。

店のオーナーは、先のことを考えてくれてるらしく、年金やら保険やらがあり、安定するほうがいいと思ってくれているようだ。

「でもそんな先のことどうなるかわからないし」というのが長男の考えだ。
私もそう思う。

今、長男は自由に楽しんで働いている。
今の状態で十分なのだ。
この仕事をずっと続けるかどうかもわからない。
だから社員になったほうが有利だ、安定できると言われてもピンとこないのだ。

今、彼は自分が楽しんで働くことができていることだけで満足している。

それが働くということなのではないのかと私は思う。


今、派遣が仕事を失い、正社員であってもクビを言い渡されている人の話題が報道されている。
そんな人から言わせれば、長男の選択は贅沢な話になるのだろうが、今の長男の素直な正直な気持ちに従っているだけなのだ。

今までのバイトでも彼はそれなりの評価を受けていたが自分の思いに従いやめている。
やめて次のバイトが見つかる保障はないし、実際半年間の「プー太郎」と呼ばれる期間もあった。
生活が掛かっていないわけではなく、彼のバイト代で我が家の生活費の一部と言おうか、重要な資金であったのだが、彼はあせることなく、淡々と暮らしていたのだ。

時期がきて、自分がその気になった時に、ちゃんと彼にピッタリのバイトを見つけたのである。

そう彼は、自分の気持ちに従っただけだった。
不安が無かったわけではないと思うが、彼は最後まで自分の気持ちに正直だった。

それが結果として彼の今の現状につながっている。

それがずっと続くとは限らないし、彼もそれを一切守ろうとはしていないのだ。

「一寸先は闇」・・・闇の中で止まっていたら、だんだん慣れて見えてくるし。
           
「転ばぬ先の杖」・・・転ぶかどうかも分からんのに、杖ついとったら歩きにくいし。

わからないのは、いつも同じ。
わからないのは、みんな同じ。

わからないときは、自分がどうするかを決めれないだけ。

「わからない、わからない」と止まっているなら、少しだけ動いて観たらいい。
そしたら、観得る気色(景色)が変わって、今まで観ていなかったものが観得る。
これが、視点の変換だ。

支点・・・自分を支える点。
始点・・・自分が始める点。
視点・・・自分が視る点。

誰かが変えてくれる、何かが変わるのではない。

自分が変えてみるだけだ。

できるだけ早く自分の気持ちに気づき、素直、正直に向きあう。
もう、やぶれかぶれ、「覚悟」を決めれば案外進めるものだ。

それが自分のできることだ。

それを今から創めていかないと何も変わらない堂々巡りが続くだけだ。



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tag : 派遣 正社員 長男 京都 高校 中退 オーナー クビ 解雇 洗濯屋

(その怒りは、どこから。

我が家の近くに「ローム」という会社があり、クリスマス1ヶ月前からクリスマスまで、会社周辺の樹にイルミネーションがされている。

何年か前からやってるらしく、週末ともなると大勢の人で賑わっている。
イオンのショッピング街が近くにあるので私も何度か通りかかっている。

先夜、通りかかった際に、5,6歳ぐらいの男の子がお母さんにエラク怒られているのを見かけた。

聞いていると、どうやら見物中にはぐれてしまったようだ。
おそらくお母さんは、いなくなったわが子を必死で探し、やっと見つけたのだろう。
男の子もお母さんとはぐれたことをどこかで気づき、泣きながら探し求めてのだろう。

お母さんは、男の子のおしりをたたきながら、叫び怒っていた。
男の子は、泣きながらも「はい、はい、ごめんなさい・・・。」と必死でお母さんに謝っている。
この繰り返しが私が通りすぎるまでに3,4回行われていた。

私は、昔の自分を思い出していた。
私も今のこのお母さんと同じことを何度と無く、ことあるごとに子どもにこうやってきた。

子どもに次にこんなことにならないように、こっぴどく叱っっている、子どものために、子どものことを思って・・・「そう」そのつもりであった・・・。

子どもは、時として私が予想もしないことを色々やらかすから。
「そう」私にとって、子どもは何をやらかすかわからない、厄介な存在だったのだ、この言葉の表現でわかる。
私は、出来事が起こるとすべて子どものせいにしていたのだ。

私は、自分の心配、怒り、不安を子どもにぶつけていたのだ。

どう自分を正当化してみたとしても、私は私の怒りが納まるまで、子どもを怒りつづけていただけだった。


私が子どもを心配していた、子どもを大事に思っていた、子どものためを思っていたのは、紛れもない事実だ。

けれど、それと子どものした事に対しておこる、イカルというのは、別なことなのだ。
私は、「子どもに私がこんなに心配しているのに、この気持ちどうしてくれるの、責任とれ」といって怒っているのだ。


子どもとはぐれて、子どもの安否が心配で必死で探したお母さんの気持ちに偽りはない、けれどそれは、お母さんのこと、お母さんの問題なのだ。
で・・・子どもが見つかり、子どもが無事であったのだから、何も問題はないのだ。
そこには、怒りはないはずだ。
怒っているならば、それはなぜ?


子どもは、お母さんの言ったことを守らずに一人でどんどん自分の興味のまま、素直に行動し、お母さんとはぐれてしまった・・・。
これは、子どものこと、子どもの問題なのだ。

はぐれたことに気がついてからは、不安になり必死でお母さんを探し求めたのでしょう。
もう、十分自分でしたことがどういうことだったか、分かったはずです。
子どもはちゃんと自分で行動し、体験できたということ。
何も問題はない。


親子であっても、共通に起こったことであってもそれぞれ別のこと、別の問題なのです。
お互いがそれぞれ考えることなのです。

親だから、大人だからといって、正しいこと、良いことを言ってるとは限らないのだ。

「そう、そう、そう」思いこんでるだけ、それは逆さま。
「うそ、うそ、うそ」自分を誤魔化すために都合よく利用しているだけだ。


それが分からずに、子どものしたこと、起こした事を子どもだけの責任にしているのだ。
子どもに自分の怒り、不安、心配をぶつけるだけでは、何も子どもに伝わりっこないということだ。

子どものことを思わない、心配しない親はいないと思います。
ただ、その大義名分を利用して、子どもに自分の怒りの責任を取らせていたということに気がついた。

怒りがどこからきているのか、それは自分が知っている。

子どもや家族、自分の周りの人たちとのかかわりの中で、怒りや心配、不安が出てきたときも、相手に怒りをぶつけても何も変わらない。

自分にぶつけても何も変わらない。

ただ、自分になぜそのような感情がでているのかをみていくだけだ。
どんな出来事が起こっても、感情を創りだしているのが、自分であると気がつけば、自分が本当に楽になれるのだ。

人の責任、人のせいにしている限り、何も変わらない。

自分は、自分を変えることしかできないのだ。

この出来事に遭遇したことで私は私のしてきたことを再確認することができた。
すべて無駄がないということだ。




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テーマ : 出来事
ジャンル : 学校・教育

tag : ローム クリスマス イルミネーション イオン スーパーお母さん ショッピング週末

(役割

それぞれ違っていい。
みんな、それぞれの役割がある。

はたらき=役割。

自分の役割が何なのかを知ることが自分を知ることになる。

それは、難しいことではない。

自分の素直な正直な気持ちに気がつけばいいだけである。


実は役割なんていうのは無くて、自分がいればいいだけなのだ。
自分の役割、生きている意味なんて考える必要なんてないのだ。

ただ、自分を生きればいいだけだ。


簡単、シンプルなことをさも難しいことのようにしているだけだ。

自分探しなんていって、自分が何なのかを外にいくら探したって見つかりっこない。
見つけられるなら、最初から、探す前から分かっていた、知っていたってこと。


それをさも知らぬフリ、分からないフリしていたってこと。

そうしておくほうが自分にとって得や安全や有利だと思っていたのでしょうが、ここにきてもう誤魔化すことができなくなってきているってこと。

知らぬ存ぜぬが「有利」と思ってやってたフリが、自分を「不利」においこんでいるってこと。

すべて逆さまなことをしているのだ。

役割に良い、悪いはない。
ただ、その役のまわりが今来ているだけ。

そう今はその役なのだ。

その瞬間、瞬間に役は変化する。

同じ役はない。

今割りあたっている役を、遣り通すことが

今の自分の役割で、はたらきとなるのだ。





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テーマ : 生涯教育
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tag : 有利 不利 はたらき 役割 シンプル 生きる

(考える覚悟。

誰も考えることをしていない。

私も3年前まで考えていなかった。
考えているつもりだった。
考えているふりをしていただけだった。

考えだすと何もかもがいったん停まるのだ。
「すべてがこれでいいのか、これは何のためにしているのか」となる。
今まで当たり前にしていたすべてに対して考え出す。
そうなって初めて自分のしてきたことが見えてくる。
今まで自分はいったい何を基準に行動してきたのか、何を信じて言ってきたのかを考えだすことななるのだ。


生まれてから何も考えずに生きてきている。
みんなと同じように言われるままやってきただけだった。
何かおかしいなと思ってもみんながそうしているしそうしていくことが当たり前、みんなと違うことをすればはみ出てしまう、一人になってしまう、孤立してしまうと思っていた。



親となったときからの私で言えば、自分で考えて子育てをしてきたのではない。
マニュアル、今までの常識や受け継がれてきているやり方を使いながら子育てをしてきただけにすぎなかった。

だからその枠からはみ出ないように教育していた。
私がそのやり方にについて考えること、このやり方で本当にいいのかという基準は、周りの人達の行動や反応で決めていた。
私が考えて決めていたわけではない。
それが正しいか間違っているかなんて考えもしなかった。

学校に行って勉強するのも当たり前、参観日や運動会、修学旅行も言って当たり前だった。
なんで行くのか、なんでするのかなんて考えてない。ただ、私が今までやってきたことだったから、当たり前でそうしてきただけだった。


何も不都合なことがないのだったらこのままでいいことなのだが、今学校や家庭では問題がたくさん起こっている。

これはおかしいと思うことばかりだ。

個性重視といいながら、統一させるための教育をし続けるのはなぜか。
自由な発想で教育して行こうといいながら、一定の枠からはみ出ないように教育しているのはなぜか。
いじめがなくならない。
なんでいじめが起こっているのかを全く考えていない。
ただ、表面化した問題を片付けているだけだ。

すべてが付け焼刃。
解決しようなんて思っていない。
問題が問題を生む・・・すべて膿んできているのだ。

昔、けがをしたら、消毒してばい菌をすべて排除して、乾燥させるために、通気性のいい絆創膏やら包帯をして覆い隠し、傷口を乾燥させていた。

今は、けがをしたら、水で汚れだけを除くだけで消毒はしない、傷口には何も塗らずに密閉する。
じゅくじゅくになり昔で言うところの化膿状態に見えるが、それが即ち自然治癒、自分の自らの回復力をまっているのだ。
そこに外からの否ぬお節介はしない。それが今一番で早く治る方法なのだ。

逆さまなことがあっちでも、こっちでもおこっているのだ。
何が一体、常識で当たり前なんだか・・・。

誰が決めるのだ。

何を信じるのだ。

何でも早く解決しよう、対処しようと考えられてきたことがすべて逆さまなことをしていたのだ。

排除はできない。

排除したものは、必ず還ってくる、これが「自然の摂理」

いらないものは、ないのだ。

菌も必要、悪も必要、闇も必要・・・何もいらないものは、存在しないのだ。
それを排除、蓋をしてそれを解決しようとしていることからすべての問題が始まっているのだ。

避けることはできない。

今、すべて、あきらめる・・・明らかに自分で観究める。

覚悟する必要があると思うのだ。

それを、今、一人一人が自覚することだ。

難しい事ではない。

自分が考える覚悟を決めればいいだけだ。




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テーマ : 教育
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tag : 覚悟 自然の摂理 あきらめる 究める いじめ 個人重視 マニュアル 膿む

(直観。

先日、最初に出た思い、自分の直感に従うのが一番だと言う事を確認した。

私は、行動する前に、どうしたら効率よく、ラクに出来るかを考えて動くタイプではない。

何かすることがいくつか出てきたとき、「なんとなく」・・・・そう、この感覚を言うとき私はこうしか表現できないが・・・。

頭の中でどう動くかはあまり考えない、効率も考えずに何事もやるのが「私流」なんだ。

「・・・が・・・だけど・・・でも・・・。」

この日は、違っていた。
色々することがあったのを
「どうしたら、効率よく動けるか、つまりはラクにすべてのことを済ませることができるのか」を優先に考えて、自分の出てきてる思いとは違う行動をとっていた。

結果的には、やりたかったことは全部することはできたのだが、その先々で自分の思いとは別の結果に遭遇していた。
そのたびに私は、「自分で違うな」という思いが出てきていたのを無視して、やり続けていたのを知っている。
これは、私以外の人にはわからない。
私だけにわかることだった。

効率を考え、ラクをしようと思った結果、時間がかかり、しんどい思いをしたのがわかるのは私だけだ。
私は私以外の人には誤魔化しができる。
けれど、私は自分が最初に思った思いを知っているのだ。
そして、それをしていたなら、時間もかからず、ラクにできたという事実を体験したのだ。

私は、確認できた。

私は、自分の出てきた最初の思い、つまりは「直感」「インスピレーション」に従うことが私のできること、やることだったのだ。

これも私が選んで行動したことによって、わかったこと、確認できたことなのだ。
やらずに、「どっちが、どっちが・・・」といって止まっていては、進まなかった話だ。
やった事に「後悔」はない。
違っていたことを確認できたのだから、変えればいいだけだ。

どちらにしろ自分の出てきている思い、考えを選び自分が行動することからしか何事もはじまらないということだ。

それをしたから、自分がしたことを確認できるのだ。
そして自分のした行動は、それがたとえ人に言われてそれを選んだとしても、それは自分がそれを選んだのだから、「人のせい」にはできないということだ。

私は、私の思いに素直に正直に動くだけ。

それが「直観」

自分を信じる事。

自信になる。



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テーマ : 出来事
ジャンル : 学校・教育

tag : 直感 直観 インスピレーション 自信 後悔

(責める。

私を育ててくれた叔母は、8年前に病院で亡くなりました。

叔母は、初期の肺がんが見つかり、がんを取り除く手術をしました。

私は、70歳と言う年齢のことも考えて
「手術はしなくてもいいのではないか」
がんがなくなったとしても、手術による叔母の体への負担を考えると後のケアのほうが不安でした。

叔母は、肺がんが見つかった時点で、生活に支障があったわけではなかった。
太りすぎのために腰と膝が痛くて、歩いたりするのが少し不自由なぐらいで、食欲もあるし、身の回りの自分の事は自分でできていた。
何も問題は、なかった。

私は術後、「今と同じ生活ができるとはかぎらないことを叔母に告げて、何も無理して手術することはない」と言いました。

でも結局、叔母は自分で手術することを選びました。

叔母の手術は成功して、がんは一応完全にとれたようでした。
が、術後傷口が化膿してしまいました。
今思うと、院内感染だったようですが、その時点ではなんともいえませんでした。

化膿が治らず、傷口がふさがらず叔母は見る見る衰弱して自分で呼吸できなくなってしまいました。
自発呼吸できないので、のどを切開して機械によって呼吸をなんとかさせてもらっている状態となりました。
なんとか、意識がもどり、傷口も薬が効いて治りつつありました。

そんな時、叔母が危篤状態になったとの連絡があり、驚いて病院にいくと、2,3日前に会話はできないものの笑顔が出ていた叔母の意識がなく、植物状態になっていたのです。

それは、早朝に気管につけていた管がつまり、呼吸困難になり心肺停止状態になったのでした。
なんとか、一命は取りとめましたがおそらく意識は戻らないだろうとのことでした。

私は、なぜそんなことになったのかを病院に聞きました。
病院は、気管が詰まっていたことに気がつかず、手当てが遅れたことを認めました。

それから叔母は2年余り、この病院で意識が戻る事なく亡くなりました。


「私は、なんでこんなことになったのだ。」
「病院は、医者は、何をしていたのだ。」
「手術がうまくいってるのに、病院の衛生管理や看護ミスのために叔母がこんな目に遭ったのだ。」

私は、自分の思っている疑問を病院にぶつけ、なぜこういうことになったかを問い詰めました。
このとき、私には怒りがありました。
病院や医者に向けた怒りです。

「病院の責任だ」とも思っていました。

けれど、同時に私は自分のことも責めていました。

「あの時、手術をするのをなんでもっと強くとめなかったのか、完全看護だからといってなんで病院任せにしてしまったのか・・・・。」

次々に「自分が悪かったのでは・・・こうしておけばよかったのでは・・・・」という思いが出てきました。それと同じように、病院への責任追及の思いも強くなり、私の心身は疲れきっていました。

そんな時、病室で看護婦さんや先生が意識のない叔母に話しかけながら、とても優しく、普通に接しているのを見たのでした・・・。

私は「いったい何やってんだか・・・」と力が抜けました。

私は叔母のためと言いながら、病院の責任追及にばかり目がいき叔母のことなどそっちのけだったのでした。

私は、「私がもっと親身に叔母のことに関わっていたならこんなことにならなかったのではないか。」という、罪悪感がありました。
それがあることを知っていて、わかっていて、それをなんとかかき消そうと病院や医者に怒りをぶつけていたのでした。

すべてがそうだったとは思わない。
けれど、自分にそういう気持ちがあったのは事実でした。


私の怒りは、叔母のためだけでは、なかったのでした。

私は、私がしたことが間違っていたかもしれないという罪悪感が責任追及へのエネルギーになっていたのでした。

私は、病院を責めるのと同じだけのエネルギーで自分を責めていたのだ。
だから、苦しかった。
その苦しみを病院や医者に向けていたのでした。
けれど、それをし続ければ続けるほど自分が苦しくなっていたのです。

私は、何か出来事が起こったときに何か、誰かに責任追求したり、悪モノさがしをし続けるというなは、実の所自分を苦しめているのではないのかと思う。

私がそれに気がついてから、病院との話しあいは変わった。

言い出せば、きりがない。
「・・・たら、れば」の後悔ばかりがでてきたが、私はそれをすべて受け入れ病院との話し合いをしました。
病院は過失を素直に認め、今後の看護も続行するという結論を出しました。

そして最後まで、叔母は手厚い看護を受けて、意識回復はなかったけれど、とても穏やかに過ごせたのでした。



私と病院との話し合いは、最初から何もかわらない内容だった。

ただ、私が自分を責めている、罪悪感をもっているということに気がついてからの話し合いは、私自身の素直な正直な気持ちを病院側に伝えたことによって、病院側もなにも隠すことなく、真実を言ってくれたと思うのです。

私は、叔母がどうしてこのような状態のなったのかを知りたかっただけだった。
そしてこれからどうすれば一番叔母にとっていいのかを病院と話し合えばよかっただけだったのです。

それが、結果的には、病院も叔母も私もすべてが満足いくことになったのでした。

何か悪いと自分が思う出来事が起こったとしても、それは本当の所、悪い良いということがない。

誰かを責めたり、悪者にするのは、自分自身を責め、悪かったのかも知れないという罪悪感の裏返しのように思うのだ。

相手を責めたり、責任追及する心を持ち続けていると言う事は、自分を責め続けることになり、自分の苦しみを増やすことになると思うのだ。

そこからは、何も始まらないし終わりもしない、堂々巡りがつづくだけなのだ。

抜け出すには、まず自分が自分を責めるのを止めてみることだ。

人を責めてるつもりが実は自分を責めている。
責めることもないし、責められる事もないのが真実なのだ。




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テーマ : 出来事
ジャンル : 学校・教育

tag : 叔母 院内感染 気管 肺がん 病院 切開 自発呼吸 手術

(自己責任って・・・。

お医者さんでもらう薬の名前が紛らわしいのが多いらしく、投薬ミスで患者さんがなくなることがあるとの報道があった。


ヒューマンミス・・・つまりは人がミスをする。
これは命に関わることなので気をつけてもらわないと、ミスは許されない。
色々工夫してミスを無くそうと努力しているが・・・。
ミスは、なくならない。


そう、人は絶対にミスしないことはないです。
それはすべての人に言えることです。
これは、みんな知っている、分かっていることなんですよね。
ミスは、したくにし、無いに越したことはない。

お医者さんや薬剤師さんも同じ人なんですよね。

お医者さんやから、間違いっこない、間違うはずない・・・って思い込んでるんは、他でもない自分やし・・・・。
ミスするかもしれないことを知っていて、分かっていて、人任せにするということは、どういうことなんかな。

私は、「人任せには出来ないことやな」と思うで。

で・・・任せたんやったら文句いわれへんな・・・て思うのだ。

自分の命にかかわること、命が大事なんやろ。
なんで自分が大事に思ってること、大切に思ってることを簡単に任せるんかな。

すべて自分が確かめることが当たり前でしょ。他でもない、自分のことやもんな。

お医者さんは、人の命を守るのが仕事やし、お金もようけ払ってるんやし・・・ミスしたらあかんやろ・・て。その医者を信用せんで、誰を信用するんや。
つまりは、「信用してやってるんやから、その信用を裏切るようなことをするな。」ということやな。

でも、人はミスしたくて間違いたくて、やってることじゃないし、ミスするかもしれないということを知っている、分かっている。

それでも、任せたということは、自分がしなくちゃいけないことをサボっているいうことだな。

サボって人任せにしたのだったら、どうなっても誰にも文句いえないと私は思う。

命が大切、命を保つために病気になったら病院にいくんだったら、医者に任せっぱなしっていうのは、おかしいやろ。

命が大切や大事やいうんだったら自分のもらう薬がどんなものかだとか、薬の名前と効果ぐらい自分で確かめんとあかんのんちゃうんかな。

ほんなら、なんで医者があるのか。
医者は、こんな症状でこの薬が効きますよと提案しているだけなのです。
それをどうするかの判断は自分に任されているし、それは自分がきめることなのだと思う。
それを自分がやらないで、医者のミスだけを責めるとういのは、おかしいと思う。

医者が間違うのが当然と言っているのではない。
医者も間違うかもしれない。私も間違うかもしれない。すべての人がそれぞれ違うかもしれない。
そのことを忘れてしまって、責任逃れのために何でも任せているのは、違うと思うのだ。


私が小さい頃は、あんまり医者に行かなかったように思うな。
医者に行く前に、近所のばあちゃんやらおばちゃんが私の様子を見て、「これぐらいなら冷やして寝てたら2,3日で治るわ」と言ってくれてほとんどその通りに治ってた。

まあ、医者にいくと当時は、お金掛かったし、貧乏やったから簡単には行けなかったのもあるかもしれんけどね。
医者に簡単にいけない分、自分らの身体のことは、自分らでちゃんとしないと自分がえらい目に遭うから、みんながそれぞれ必死やったと思う。
それぞれが持ってる智慧や経験を出し合い、自分のことは、自分で責任もってやっていたと思うな。

人任せにしたり、お医者さんの言うとおり自分がして、自分の思う結果にならなかったときは、人のせい、医者のせいには、しなかった・・・・。

まあ、これが弱者の泣き寝入りとか言って、こんなことでは、弱いものが損をするという考えから、今のように、規則や規制、法律なんかができて、いかに自分が損をしないように、自分を守るために責任転嫁ゲームが始まったというわけだ。

こんなことをしているから、自分に責任が回ってこないようにどんどん規制や規則増やして、みんな身動きとれないようになっているんちゃうんかな。

自己責任なんて言葉があっちでもこっちでも、叫ばれているのは、「自分の責任を逃れたいために相手を規制しているだけやな。」

自己責任なんてほんと当たり前、これこそが常識なんや。
それを、ことさら、いまさら言う事違うって思うな。

「変」 これこそ「変」である。


私を含めてみんなサボりすぎやと思う。

自分のこと棚に上げてそれをしでかした相手にはやたら厳しいな。
責任は誰にあるにあるのか・・・悪者探しばかりしている。

責任転嫁ゲームが生んだ問題ばかりが横行している。

食品も薬も政治、仕事、・・・・

自分のことを、自分で責任もってやっていけば、責任者を探す手間も省けるし、自分が損をするなんてことは、ないと思うのだ。

すべての人が止めないとこのゲームは終わらないのだ。

すべての中には、いつも自分が入っていることを忘れてはいけないのだ。


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テーマ : 出来事
ジャンル : 学校・教育

tag : 自己責任 食品 政治 仕事 ヒューマン ミス 医者

(タイミング

近頃、不登校の次男が変わってきた。
毎日のゲーム三昧は変わらないけれども、私とよく話すようになってきている。

まあ、私が今までの常識の枠にはめるのをやめて、彼がどうしたいかに耳を傾けるようになってから
3年余り・・・ここに来て、彼が本当の気持ちを私に言うようになってきたということかな。

彼が変わったというよりも、私が変わったんだな。


私は、彼が学校に行かない選択をしていることは、彼が今選んだ道として問題はないと思っている。
まあ、今のままの世の中が続いたとしても学校に行かないことが彼にとってプラスになるかマイナスになるかは、誰にもわからないことだから。
先のことは、私にも彼にもわからない。

けれど、だ・・・ここからも私の本音・・・ゲーム三昧の日々を横目で見ながら、こんなことしていて彼は、この先どうなるのだろう。
学校に行かないのは、いいとしても・・・。
彼が、日々ゲームばかりしているのを見るにつけ、私が不安になっていた。

「彼が選んでいることだから」と納得はしているものの・・・・。

このままで、いいのかな・・・。
私は、今の状態を 「受け入れよう、受け入れよう」と思えば思うほど私に不安が増えていた。

彼をなんとかしなくちゃ・・・。彼は、なんとかしたいと思っている・・・。

彼もそう思って葛藤していると思っていたが実は、私のことでした。

そう、見ていたものは、私の葛藤、私のことでした。
彼を見ていたのではありませんでした。

大きなお世話でした、私の一人芝居です。自分の都合いいように彼を問題視していたのでした。
彼は自分のことは自分で考えていたのでした。


学校に行かないでゲームばかりやっていて、いいのだろうか・・・。
彼は、いったい何のために生きてるんだ、何が楽しいのだ・・・。

彼のことは、彼が考えればいいことだった。

私が彼に対して思っていたことは、私が私のこととして考えることだったのだ。

私は、彼の行動を見て感じること、思うことを考えればいいだけだったのだ。
彼のこと、彼がどうしてそうなっているかは、私には分からない。

彼は、言っていた。
「今は、わからない・・・。」
そう、彼はちゃんと自分で答えを出していたのだ。
それを聞いていなかったのは、私だった。

「今は、わからない」それが、今の彼の答えなのだ。

彼の答えを聞いていても聞いてない。
つまりは、私は自分の納得する答えを彼から引き出そうとしていただけだった。
それは、彼のためではない。私のためだった。
私の安心、ラクのために、答えを求めていただけだったのだ。

私は、彼が学校という枠からやっとのことで自分で出てきたのに、「それから、どうするの、どうしたいの・・・」と矢継ぎ早に答えを求めていたのだ。

彼のことは、彼が考えればいいこと。

これを彼は私に教えてくれていてのだ。
私が、自分のことを考えることを・・・。
私は私のことに目を向けるようにした。


私と同じように、子育てをしている人は、自分のことよりも子どものこと、家族のことと考えがちだけれども・・・。
これは、実は逆なことをしているのだ。

子ども事、家族の事と思っていたことは、実はすべて自分のことだったのだ。

視点を変えると今まで見えなかった子どものこと、家族のことが見えてくるものだ。

私もそうだったように、一つのことに焦点を当てすぎると周りが見えない、見ていないことが多い。

何か、問題と思われることが起こったときこそ、自分がリラックスすることが大切なんだと思う。
問題を解決してラクになることばかり考えずに、少し力を抜いてラクにしてみる。
これは、自分ですぐにできることなんだ。

みんな、力が入りすぎるとうまくいかないという経験は、たくさんしている。
リラックスして何事も取り組んでいくのが、一番ラクな方法なんだと思う。
少し距離をおいて見たり、聞いたりするとわかることがたくさんあると思う。

私が私のことに視点を向けるようになると、彼が自分のことを話すようになっていた。

で・・・今の彼は、毎日ゲームと料理をしている。
自分のしたいことは、自分で見つけていた。

料理が好きで、今は「将来ラーメン屋さんになりたい」というのを話してから、ぼちぼち料理のレパートリーが増えてきている。
私は、彼に料理のことを聞かれれば答える、アドバイザー役をしている。
料理に関するアドバイスは、彼はとても素直に聞いている。
それ以外の私の話には、反抗期特有の「アー言えばじょういう・・・???で素直には聞かないのだ・・・・。」

最近、彼に料理の基礎の本を買ったら、本を参考に次々チャレンジしている。

昨日は、鳥の照り焼きとポテトサラダを作っていた。
まずまずの出来で、みんなに好評だった。

料理をしているときの彼はとても楽しそうである。
自分の作る料理が少しでもおいしくなるために工夫している。

彼は、料理に興味がどんどん湧いてきている。
最近では、中学卒業後 「調理師学校に行くのもいいな」と考えているようだ。
そんなことも話してくれるようになっている。
彼が何かをしたいというのは、幼児期のサッカー以来である。

前は、何を聞いても「わからん、わからん・・・・」と言うばかりだったのに・・・。

私が変わって、彼が変わった。

私は、すべてはタイミングだなと思う。

彼は、今自分のことを考えるタイミングなんだと思う。
自分がどうしたいか、今やっと考えるときがきたということだ。

学校というベルトコンベヤーから外れて3年、今やっと彼は、自分の気持ちを見つけて、それを表現できるようになったということだ。

前でも後でもなく今、彼のタイミングなのだ。
それは、一人一人違う。
だから、同じようになんて進んでいかないのだ。

教育するのもそれぞれのタイミングというものがあるのだ。
それをみんな一斉にやらせようというのには、無理がある。

それぞれのタイミングはそれぞれにあるから。

それは、本人しかわからないタイミングだ。

だから、自分の家族や子どもだからといって、どうしてあげることもできないのだ。

私は、子どもや家族を通して見ている出来事を私がどう感じ、どう思うかを真剣に見つめ、素直に正直に行動していくことしかできないということだ。

どんなタイミングでくるかは、人それぞれ違うものだから。

見つけるためのサポートはできるが、無理強いや強制はできないと思うのだ。




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テーマ : 子育て・教育
ジャンル : 学校・教育

tag : ラーメン屋 タイミング ゲーム 三昧 料理 毎日 不登校 次男 リラックス

(福袋。

福袋とは・・・基本的には中身は非公開で、組み合わせた商品の合計価格以下で販売されるため、購入者がどれだけ有用で豪華な内容であるかに期待できるギャンブル的な要素を含む商品である。


何がはいっているかはわからない。ワクワク、ドキドキを楽しんだり、自分が選んだ袋にどんな福が入っているかを、新年に試す、運だめしかな・・・・。


いまどきの福袋は・・・
中身が見えて、自分で選べるらしい。
そんでもって予約制・・・・。
これって福袋にしている意味あるのかな?

これやったら、普通に売ったらいいんちゃうんかな~。
何のため、福袋なんてネーミングされてるんやろね。

つまりは、そういうネーミングにしたら消費者が調子にのって買うと思っているんかな。
まあ、まんまとその策にハマっているな・・・。

昔の形だけが残ったということか。

福袋といえば、売れ残ったものがいっぱい入っているっていうのが昔の常識やった。

私は、お年玉をもらえていた頃に初売りの百貨店・・・つまりデパートにいって競って買った思い出がある。

中身が見えない袋を「あーでもない、こーでもない」と選んで楽しんでいた。
中身が売れ残りの品物であるとわかっていてもなぜか毎年買うのが楽しみだったな。


そして、買った福袋を集まった親戚やら近所の人やらと見せ合いをしてそれぞれの欲しいものを分け合った。福袋を買うのと同じぐらい、いやそれ以上にこの時が楽しかった記憶がある。
だから、中身が売れ残りのいらない物が多いとわかっていても、なぜか毎年買っていたんだと思う。
みんなで福袋を楽しんでいたんだと思う。
中には、すごい掘り出しものが入っていたりして、そんなのが入っていると、今年一年いい年になる言って喜んでいたもんやわ。


私にとって、福袋の中身がわかっていて、選べて、予約して買えるっていうのは・・・・おもしろくも楽しくもないのだ。
そんなのは、やっぱり福袋とは言わないな!


まあ、最近では親戚やら近所の人が正月に集まることもなくなったから、福袋をみんなで楽しむこともないんだろうな。

自分の一年のご褒美でいまどきの福袋を予約していることが多いらしい。
単に自分で自分の洋服や欲しい物を買うよりも「福袋」とネーミングされた物を買うほうが「自分に福が少しでも来るかもしれない」と思っているのかな。



私は、中身が見えない、わからない福袋が敬遠されるのは、先の見えない、わからない、今の世の中身を避けようとしている現われだと思う。


福袋の中身がわかって予約できるようになっても、世の中身は、進んでみないとわからないし予測はできないものだと思う。


多くの人は、先のわからない世の中を不安に思っているのかもしれないけれど、私はわからないからこそ昔の福袋のように楽しみなのではないかと思うのだ。



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テーマ : 出来事
ジャンル : 学校・教育

tag : 福袋 お年玉 親戚 近所 予約

(自分を認める。

昨日のテレビドラマ「だいすき」の最終回。

柚子は、お母さんが死ぬかもしれないということを知り、悲しみに打ちひしがれ、仕事もひまわりの世話も家のことも手につかない。

今まで出来たことがすべて出来なくなるほどの衝撃を受けていた。

こういうときには、次から次にこれでもかというほど、柚子やひまわりに課題がくる。
お母さんとともに、柚子やひまわりのサポートしていた義妹が柚子のお金を騙し取ったおばちゃんを町でみつけて、追いかけるあまり暴力沙汰のぬれ衣を着せられ勾留されてしまう。

柚子とひまわりを今までサポートしていた人が次々いなくなる状況になる。

そんな中、柚子の帰宅が遅く、それを一人待つひまわりに近所の小さな親切大きなお世話なおばさんが、何もこの家の事情もわからないまま
「ひまわりがかわいそうだ」
小さい子を一人家に残し、家事もろくにしていないことを児童相談所に通報したのだ。

このことによって、児童相談所の人が柚子が親としてひまわりを育てる能力がないのではないかと調査にやってくる。

そして、お母さんが居ない間、柚子がひまわりの面倒をみれないのなら「しばらく施設で預かってもらったらどうか」と言ってくる。

そんな中、柚子はまだ自分の気持ちが整理できないでいたが

ひまわりが言う「お母さんは、私のことを愛してくれています。私もお母さんが大好きです。お母さんと私はできないことがいっぱいあるけど、一緒にがんばります。」

柚子はひまわりの言葉に目を覚ました。

ひまわりと一緒に今までお母さんがやっていた洗濯や料理を少しずつやっていくようになった。
「失敗は成功の母」うまくいかなくても、めげません。

このことで柚子は自分が出来ないことをひまわりとともにやっていくようになったし、今までできないことを人に助けてもらうということが出来ないでいたが、素直に人の助けを借りるということができるようになった。

柚子は、自分がみんなと同じように出来ないことが今までずっと気にしていた。
だから、できない自分が許せななかった、人に助けてほしいということが言えなかった。

けれど今、柚子はできないことを人に助けてもらう自分を認められるようになった。

できないことがある自分を認められるようになったのだ。



私は、柚子がいつも素直で正直に行動していることがなによりもすばらしいと思った。
悲しいときは悲しみ、嬉しいときには喜び、自分の感情を素直に表現している。
自分の感情を自分が抱えきれないときは、思いっきり落ち込む。
本当に素直です。正直です。


けれどそんな素直で正直な柚子でも、自分のことを認めていなかったのです。

育ってくる中で、自分は障害があり他の人が簡単に出来ることでも中々できない、そんな自分がいやだった、恥ずかしかった。出来ないことがある自分を認めることができなかった。
周りの人の助けが必要な自分はだめな自分だと思っていた。

だから、何でも自分で出来るようにならないとだめだと思っていた。
いつも、自分に駄目だししていた。
それは、周りの人に甘えてばかりいてはいけないという柚子の自立心からだったのだが、それがかえって自立を妨げていた。

私は、自立とは、自分で何でもできることではないと思う。
柚子は自分のできないことを恥じることはない。

柚子だけではない。

私も出来ないことのある自分を、人より出来ない自分を認められなかった。
だから、何でも自分でしなければならない、やらなければ・・・。と自分をどんどん追い詰めていたときがあった。

出来ない自分を認め、誰かに助けを求めてもいいんだとおもってからは、自分が何をするのもラクになった。
出来ることは、自分でやる。出来ないことは、素直に助けを求める。
これを一番身近な家族にまず出していくことが私は、大切なことだと思う。

それをみんなが認めて、それぞれができることを交換しあえばいいだけであると私は思う。

お互いを認め合うことが大切だ、必要だと言う前にまずは、自分が自分を認めることが必要なのだ。

自分が自分を認められないで、誰が認めてくれるというのか。

自分のできることはもちろん、出来ないこともすべて自分が認めていくことだと思う。

それがわかってこそ、人の助けを受けることも、人を助けることもできるのだと思う。

自分が自分を認めることは、今すぐにできることだと思う。




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テーマ : 出来事
ジャンル : 学校・教育

tag : だいすき 認める 自分 テレビドラマ 柚子 ひまわり

(その時々の役目

朝の再放送のテレビドラマ「だいすき」というのを観ている。

「知的障害のある柚子ちゃんが子育てをする。母親や周りの人たちがサポートしていく。」というお話だ。

今日のところで柚子ちゃんのお母さんが「胃癌」になってしまった。

お母さんは、自分が死ぬわけに逝かない、私が死んでしまったら柚子や孫のひまわりが困る・・・・
と、あれやこれや心配している。
自分の病気のことよりも柚子や孫のひまわりのことばかり気にかけている。
けれど、お母さんはわかっている。柚子がひまわりが自分でしっかり生きていくことを望んでいた。


私は「いつまでもお母さんが面倒みることではないな。お母さんの役目はある意味終わったのだろうな」と思った。

このドラマではお母さんは治りますが・・・。
私は、たとえ死んだとしてもそれは決して不幸なことではないと思います。
次へのステップに必要なこととしてやってきたことなんだろうと思います。

お母さんは、柚子を育て、柚子はひまわりを生み育てています。
これからは、お母さんの手助けなしでやっていく時がきたということなんだなと思うのです。
柚子に必要なサポートは必ず来ます。
柚子には次の課題がきたのだということです。

これは、私にも言えることでした。

私は、小5の時に母を亡くしています。
傍目からは、私に不幸なことであり、母にとっては、幼い私を一人残してさぞ無念だっただろうと思われるだろうが・・・。

私は、違うと思うのだ。

母は、私を産み、小5まで育ててくれた。
ある意味そこまでが母の役目だったんだろうなと思います。
その後は、私が自分で生きていくことにバトンタッチしたのだろうと思います。
人にはそれぞれの時期があるのです。
私は、小5が母と別れ次のステップにいく時期だったということだと思っています。

そこには、私を短大卒業までサポートしてくれる叔母もいてくれたし、次々に私に必要なことがその都度、私に与えられてきた。
それを不幸なこととしてみるか、自分に必要な課題としてみるかによって、同じものが違ったものになるのだと私は思います。

人と違う、目に見える部分では親を早く亡くすという不幸なことに思えることも単に自分に必要な出来事がおこったというにすぎないのであると思うのだ。

出来事のとらえかたによってそのことの意味が変わってくる。
その出来事をどうとらえるかだけであるのだ。

すべては自分次第ということだ。
不幸なこと、幸せなことという区別は自分が創っているにすぎないと思うのだ。

そのことに気づけば、どんな出来事がこれから起ころうとも、不安や心配はいらないのだ。

その時々の役目があるし、やることになっていると思うのだ。



視点変換への
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テーマ : 出来事
ジャンル : 学校・教育

tag : だいすき 柚子 ひまわり 傍目 再放送 胃癌 役目 ステップ

(エネルギー。

昨日の「聞く屋」にきた高2の男の子。
「プロレスが好きで高校を卒業後、メキシコに行って修業したいと思っている」と言っていた。
親もそれを認めているらしい。
けれど、彼は迷っていると言う。

彼はメキシコに行くことは決めているのだが、その先のこと。
つまりは、メキシコに行って修業のあと、自分がどうなっているかを心配しているのだ。
プロレスラーとして成功できればいいが出来なかったとき、日本に帰って来ても大学も出ていない自分が働く場所もなく、食えなくなるのではないか・・・・。

親はメキシコに行くことは認めているが「その先のことをちゃんと考えておきなさい」といっているらしい。

彼は最悪の状況を考えさせられている。
親は、反対はしていないが彼を応援しているつもりがかえって彼を不安に落とし込んでいることに気づいていない。

彼は自分の夢を持ち、自分のしたいことをちゃんと見つけて今それに向かって準備している。
そして、メキシコ行きは決めた。

今、彼の考えることは、メキシコで夢叶わぬ先のことではない。
まずは、メキシコ行きを自分でどう実現させるかなのだ。
まだ、どういう風にいくのか、費用がどのくらいかかるのかさえ、はっきりとつかめていないのである。
親は、行った先の先の心配や不安を彼に与えるのではなく、彼が自分で選択したことがスムーズに運ぶようサポートするものだと思うのだ。


私を含め親というのは、自分の子が何か新しいことをしようとするとき、自分の今までの経験という印籠で子どもにあれこれ口出しをする。
それは、わが子を思う親心のように見えるが、実のところ自分の子が苦労するのを自分が観たくない、自分が苦しみたくないためであるとも言える。

彼のメキシコ行きに賛成し、本当に彼がプロレスラーとしてやっていくことを応援するというのであれば、最悪の状態を今、彼に考えさせるほうにエネルギーをつかわせることは、逆効果だ。

それをすることは、彼の夢を妨害しているのと同じことなのだ。

親は、子どもの選択したことを最後まで見守り、サポートし続けることだけすればいいのである。

親の心配や不安のエネルギーは、子どもの夢の実現のためのエネルギーを奪うことになると思うのだ。


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テーマ : 教育って何だ?
ジャンル : 学校・教育

tag : プロレス エネルギー 奪う メキシコ 聞く屋 修業

(何、観て言ってるの?

最近のワイドショーで「みんな、怒っている麻生発言」というのをやっていた。

数々の麻生総理の発言を放送していた。

が・・・・・。
どう観ても、どう聴いても・・・・。

ワンカットをとりあげているだけ、麻生総理が言ったことの一部だけ、みんなが怒りそうな反応しそうな内容だけをおもしろおかしく取り上げているだけにすぎないように思う。
本当のところがわからない。本当は、どういうことを言っているかを確かめていない。

なのにみんな、批判している。

そんなん、おかしいやろ~。

「仕組まれているんちゃうか」と思うのは私だけ・・・。
よってたかって言ってるようにしか見えないのは・・・。



一般大衆と言われている私らは尻馬に乗って

「麻生総理がひどい常識のないことを言っている」という反応をマンマとすることなっている。

え~これってどうなんよ。

麻生総理が言ったこと全部聞いたわけではないのに、何をそんなに怒っているのだ。

私は「何、聴いたん!何、観たんや!」って思うんよね。

子どもにも言うやろ「自分で観てもいないこと、聴いてもいないことをええ加減に判断したらあかんで」

自分も自分のしてないこと、言ってないことを勝手に相手の思い込みで

「あ~でもない、こ~でもない言われたら、いややろ、腹立つやろ」って。

自分がされたらいやなこと、麻生さんならしてもいいということかいな。

「一国の総理が発言するのは、もっと考えてせな、いかん」って、どんな発言したって取り上げられかたに偏りがあったら同じことやな。

挙句にあの人はお坊ちゃま育ちで私らの気持ちがわからんだの、漢字の読み方間違っただけで、あんな人に日本を任せられんって・・・ほんなら、自分らでなんとかしいや。何にもせんと評論、批判だけやったらラクやわな。

麻生さんのことよう、知ってはるんやな。
私は知りません、わかりません。


これって、いじめ?
揚げ足とりのいじめやね。

みんなが言えば怖くない、みな正しいか。
誰もおかいしと思わないのか。

何を言われてもしゃあ~ない。あの人は特別。
じゃあ、毎日バー行ってもいいやんか~、特別なんやから・・・。


こんなことを話題にしている場合ちゃうやろ。
「ほんま脳天気というか、脳のなか空っぽやな」と思うのだ。

結局のところ、みんなすべてどうでもいいってことやね。



同じ自民党の人らも麻生総理がどういう意味で発言しているか知っているのか、いないのか、わかっているのか、いないのか、何も言わない。

言わないどころか一緒になって麻生批判をしている。

今、麻生擁護をすれば一般大衆から自分が攻撃されるからな、自分に損になることは言わないな。
いじめの構図やね。観てみぬフリ、知らぬ存ぜぬ・・・。

ほんま、猫も杓子も同じ穴のムジナやね。



言っておくが私は、麻生総理が好きなわけではない。
麻生さんが言ってることが正しいと言ってるわけではない。

私は麻生さんが言ってる内容うんぬんよりも、そのワンカットを取り上げて、批判、評論されていることを鵜呑みにして
「あ~でもない、こ~でもない」といってることがおかしいことだと思うのだ。

自分で確かめもせんことをさもホントらしく口々に言っている。
大勢が「あいつはこんなことを言っていた、していた」と言えば、みんなが信じ込む。

こんなことをいつまで続けるのだ。


こんなことをし続けてる限りいじめはなくならんよ。
「いじめ問題が解決しない」と嘆く前に自分がしているいじめに気がつけよ。

戦々恐々、自分がいじめの標的にならんように、直接のいじめはしないけど・・・・。
みんなが言ってる尻馬に乗っとかな自分がやられる。
こんなことをニュースで正々堂々と放送している限り、いじめはなくならないのんちゃうか。




ほんでもって、自分らで色々言って、出来んようにさせといて
「総理辞任」なんてことになったら
また「やっぱり無責任な麻生総理」とか言い出すんやろね。

麻生さんの能力がどんなもんか私にはわからんけど
「みんなで辞めるよう、やらさんようにしたんちゃうの~」と思うのは私だけかいな。

こんなこと何回繰り返したらいいんやろね。

誰かがしてるんちゃうよ。

誰かがなんとかしてくれるんちゃうよ。

自分が選んでしていることやで。

自分でちゃんと考えんとな。


政治家やお偉い先生や評論家、マスコミよりも多い一般大衆と言われる私らが目を覚まさないと何も変わらない。
このまま野放しにしているのは自分ということだ。


すべては繋がっている。
自分の目の前で起こっている、観ている、聴いている出来事はすべて自分のことだ。

他人事なんて何もないのだ。

すべて自分のしていることだ。

すべて自分が選んでいることだ。

それをやめることができるのも自分だな。



ちぃ~とは自分で考えや!!



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テーマ : 出来事
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tag : 麻生総理 自民党 いじめ ワイドショー リハビリ 政治家 尻馬 マスコミ 評論家

Dプロフィール

 林 一美

Author: 林 一美
 昭和35年4月生 東京都出身
 大阪育ち 京都在住

幼稚園、小学校講師、塾経営をやってきました。
なにをしても、どこにいても、私の世界は、私の世界。

おかしいと思ったことは、おかしい。
変なことは、変や。

誰が何と言おうと、私は私のみちをいきる。
それが私にできる。ただひとつのことや。

実は誰も何も言っていない。
すべては、私が言ってることやんか。

私はあんた、あんたは私。

さかさま。おしゃかさま。
かみもほとけも。みな、おんなじ。

まっさかさまの、だいどんでんがえし。

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