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(はたらき

先日は勤労感謝の日やったらしいが・・・・。

勤労感謝の日って何?

誰が何に感謝するの?

働く人に感謝・・・家にお金を入れてくれて生計を維持するために働いてくれている人、つまりは父親に感謝・・父の日か。今は母親も働いている家庭も多いな。

父さん、母さんにまあ~とりあえず感謝しとくんかいな。


働くといえば、みんな働いている、あえてこの日を作って感謝しようなんて・・・なんで思ったのかな?

「働く意欲がなくならんように適度にいい思いさせとこか、感謝しとこか」ということかいな。」

感謝してるよって毎日働いてや。



で・・・・。

なんで、働いているのだ。

働くとは、何なのだ。

好きで働いている人はおらんて・・・。
なんでやの~?
おかしいな~?


「働かざるもの食うべからず」

働かないと食べてはいけない。
食べるというのは、食べる物。
食べる物を買うためには、お金がいる。
お金がないと食べ物が買えないから、働く。

食うために働いている。

食うために働けよ。

お金を稼ぐために働いている。
お金を得てないのは、働いているとはいえないのか。

子どもや専業主婦は、お金を得てないから働いてないのか。

子どもは、将来働くために教育を受けさせて、出来るだけ高収入の仕事に就けるようにするために投資している・・・。

専業主婦は、洗濯や掃除、料理と他の人に頼めばお金がかかることをただでやってくれているから実質お金を稼いでいるのと同じことだ・・・。

お金がいらなければ働かない。お金がいるから働いているだけか。
お金がいらなくなれば働かなくなるならば、お金のためだけに働いていることになる。

働くとはエネルギーの交換なのだ・・・互いに換える。
働くとはエネルギーの交換なのだ・・・互いに感じあう。
働くとはエネルギーの交歓なのだ・・・互いに楽しむ。

すべてが働くことだ。すべて働きがあるということだ。
お金のためだけに働くというのはおかしいことだ。

どんなときも、みんな働いているのだ。
働いていない人は、いないのだ。
お金を入ってこなくても、働いてている。働き続けている。
生きてることが働いていることだ。


働いてお金を得るというのは、副産物にすぎない。
お金のために働くというのは、お金に支配されることを自分で選んでいるだけだ。

お金がすべてを操ることになっているのだ。
いつからそうなったのか。
いつからそれを受け入れたのか。


本当にお金がないと生きていけないのか。
これを本当だと信じて働くのも自由だ。
それは嘘だと信じて働くのも自由だ。
すべて自分に任されていることだ。
誰も知らない、わからない。
自分が決めれることだ。


お金がないと生きれない。働かないと生きれない。
そう思わされて働かされているだけなのだ。
働かないと困るのは自分ではない。それを操っている人がいる。働かないと困るのは自分ではない。

働かない人は、ロクな人じゃない。
働かないなら、食うべからず・・・。
そう思わされて働くことを選んでいる。



はたらく・・・傍を楽にして、自分も楽になることだ。
はたらけば働くほど自分が苦しくなっているのは、おかしいことだ。

何のために、働いているのか。

働かされているだけだ。

いつまでも働かされているのを選んでいるのも自分だ。

本当ににそれでいいのか。

働く働かないの選択は自分ができるのだ。


もっと豊かにもっとたくさん
もっと、もっと、もっと・・・・。

際限なく働かされる。
お金のために働かされる。

これを選択しているのも自分だ。

働く・・・自分の働きは自分が決めるのだ。

そう決めたなら、何も言うこと、文句はないのだ。

働くことが悪いわけではない。
働くことを選んでいる自分の心に何があるかなのだ。

働かされているのではない。
自分の働きを真っ当していくだけなのだ。



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テーマ : 教育問題について考える
ジャンル : 学校・教育

tag : 働く エネルギー 交換 交歓 交感

(親子の会話

今朝、我が家は全員でリビングに集まっていた。
各自が各自のペースで生活しているので同じ時間、同じ場所にいることを強制していないが、今朝のように自然とみんなが集まることがよくある。

各自が思い思いのことを話している、聴いているのだ。
とても賑やかである。

これが我が家では今、ごく自然になっているが3年前までは、違っていた。
確かにみんな揃っての朝食、夕食で親子の会話らしきものがあった。
形は今も3年前も変わらないのだ。

けれど、3年前は自然とそうなったのではなく、なかば強制的に全員揃うようにしていた。
決め事、当たり前、常識としてみんなで一家団欒ごっこをしていたのだ。
みんながそうしたいとは思っていたのではないのだ。親が無理やり集合させていたのだ。

今思えばその時の会話は、中身のない、本心を言う状態ではなく、ほんと上っ面の当たり障りのない会話だった。
私が子どもに不満やお小言をいうだけで子どもからの自発的な話しは、ほとんどなかった。
話しのキャッチボールがなかった。いや当時はそんなことにも気づかずにいた。
その会話が親子の会話だと思い込んでいた。
今と比べるまでは、それがごく自然な形だと思っていたのだ。

子どもは、学校での出来事などを話してはいたが、私は子どもの話しを聞くことよりも親の言いたいことばかりを押し付けて言っていた。
いつも子どもを抑制していた。
子どもの言うこと、やることにいつも口出し、手出しをしていた。

子どものことを思って言ってると思い込んではいたが「実のところやっぱり親である自分の立場が悪く思われないようにしていた」というのが正直な気持ちであったと今は思う。

当然、子どもが大きくなり自分の主張をするようになってくると、こんな親に何を言っても否定される、だめだしされると思い、だんだん自分の考えを話さなくなってきていた。
ほんと、一家団欒の親子の会話なんて形だけのことだった。

こんな状態だったが、わが家は標準的ないい家族、親子の会話も十分していたと思っていた。
実際、取り立てて大きな問題があったわけではなかった。
多くの家庭がそうであるように、外からみると何も問題がない家庭だった。

けれど家族がバラバラになっていた気がする。気がついたときには、かなり重症な状態だ。
子どもが大きくなるにつれてギクシャクしている親子関係があったのだ。


色んな出来事(問題)が起こることによって気づく場面がたくさんあったにも関わらず、気づかないでいた。親子の会話が一方的に親が子どもに親の考えを押し付けるだけになっていったのだ。

親が子どもの言うことを聞かないのだから、子どもが親の言うことを聞くはずがない。
当たり前なことだ。

私の知らない子どもの思い、考えがあった。それに気づかず、見過ごしていた。
一緒に生活しながらだんだん子どもの心がわからなくなっていた。
親子の会話する時間をいくらつくったところで、子どものことを観てない聴いていない会話など何の意味もないことだ。子どもが話していないのではない、親が聴いていないのだ。

そう、あの頃は「こうあるべき、こうしておくべきだ」が先にたち、子どもの気持ちや思いを受け止める余裕がなかった。
教育費も増えていき、教育費のために私の働く時間が増え忙しくなり、ますます子どもとの距離が広がっていっていた。
子どもの話しなど聴く心の余裕がますますなくなっていた。日々いっぱい、いっぱいで過ごしていた。
私が一生懸命働いているのに、子どもはそんなことどこ吹く風で勉強しない。成績も上がらない。
学校でのトラブルも増えていた。
そして、子どもには親の言うことを聴くことだけを強制していたのだ

いったい私は何をやってんだか。自分の都合でやってることだ。子どもが望んでいることではない。

子どものためと思ってやってることが「うまくいかないのは、子どもが悪いからだ」と子どもに八つ当たりしている。
おかしな話である。
こんなばかなことを私は、やっていたのだ。
すべては親である私がやっていることだった。
子どもがどうのこうのということではないのだ、すべては私がしていることだったのだ。


だから、いくら毎日食事を一緒にしたって、会話の時間をたくさんとったって、一緒にいないのと同じ、話してないのと同じだ。
子どものことがわかるはずもないのだ。
わかろうとしていなかったのだ。

私は、子どものためといいながら、自分の親としてのプライドや世間、義父母の評価を気にしていた。
子どもが世間からはみ出ないように、勉強させていい学校といわれているところに入れて、いい会社にはいれるようにすることを優先して考えていた。
先のことを考えている風に見せかけて、今のこと、今の子どもの状態を全く観ていなかったのだ。


親は、子どものために色々考えたり、思うことは当たり前だ。
けれど、それはあくまでも親の考えであり、思いである。

どうしていくかは、子どもが考え、選んでいくことだ。
子どもから自分で考え、選択することを奪うことはできない。

親子の会話が一方的な親の押し付けになってはいけないのだ。
親子の会話はいつでもお互いのキャッチボールになるのが当たり前だ。
お互いが自分の素直な正直な気持ちを話すことができて当たり前だ。

親の今までの体験や経験を話し、後は子どもが自分で考え、選んでいけばいいだけだ。
話したことは、参考にはなるかもしれないがあくまでも一例にしかすぎない。
ただ、色んな選択があることを示し、子どもが自分の考えで選べるようになるまで親は、じっと俟って(まって)いればいいだけだ。

親がラクをするために、親の今までの常識を押し付けることをしてはいけないのだ。
親の結果が子どもに適応されるとは限らないのだ。

子どもが自分で考え、自分で選んだことを最後まで責任を持ってやっていけるように見守っていけばいいだけだ。
子どもが必要としたときだけに親は自分の今までの経験を話していけばいいのだ。
後は、じっと子どもの話しを聴くことだ。

手出し、口出しは無用だ。

今、子どもに起きた出来事を親の考えや選択で避けることが出来たとしてもそれは、回避しただけに過ぎず、必ずまた同じことが戻ってくるのだ。
戻ってきたときには、最初に起きたときよりも、さらに大きい出来事となって子どもに降りかかることになるのだ。
避け続けることは出来ないのだ。

すべては、今まで避け続けて結果が今の世の中で起こっていることなのだ。

今、親子の関係や会話を戻そうとするならば、避けずにすべてを受け入れ、起こる出来事をただじっと見守り続けることをしていくだけだ。


それを貫く辛抱が親には必要なのだ。

子どもを信頼すること。

自分を信頼することだ。



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テーマ : 子供の教育
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tag : リビング 一家団欒 自然 信頼 辛抱 親子の会話 手出し 口出し 回避 責任

(本当のこと。

私は、本当のことを知っている。

みんな、本当のことを知っている。

そうすべてわかっていること。

世の中の出来事すべておかしい。

教育も家庭も社会も政治もおかしいことだらけだ。

みんな知っている、気づいている、わかっている。


それに気づいていて何も言えない、言わない。

言ってる人も他人事、責任者は誰だと責任転嫁ゲームをやってるだけだ。

誰も自分でなんとかしようなんて思ってないし、思わない。

知っていて知らん振りしている。
知っているからこそ避けることができるのだ。避け続けた結果が今の世の中だ。

わかっちゃいるけど、自分ではやらないのだ。
楽に逃げたと思ったところがますます苦しくなっている。

「本当のことをいうと自分にとって損だから、それを言っちゃおしまいよ、理想で物事は動かない・・・。」
「理想は現実にはならない」と言っているということは、いつまでもこの状態が続くことを望んでいるということか。
自分では、何もしないということだ。

自由、平等、幸福、愛に満ちた世の中。
殺し合いや奪い合いもなくみんながのんびり生活できる世の中。

自分に素直に正直に生きれる世の中。
みんながこんな世の中になったらいいと思っている。
これは、理想論、できっこないことなのか。それは誰が決めているのか。

私は、違います。

「自分に素直に正直に生きたい」それが私のこの身体をもって生まれてきた意味だ。

何もこの世の中に自分に不都合なこと損なことなんかないのだ。
それが今あるということはおかしいのだ。

すべて自分で答えの出せることを人に聞きまくり「私のことなんとかしてくれよ。私はどうしたらいいんや」といっている。


「すべて自分が仕出かしといて、アンタの責任やなんとかしてや」といっているだけだ。
それをし続けているから自分にとっての不都合が終わらないのだ。

もともとない不都合、損を自分が作り出しておいて「誰かになんとかしろ」とはおかしな話だ。

自分の思いで作った世の中を直せるのは作った本人だけだ。

するかしないかを決めるのも自分である。

自分が本当のことをすべて知っている。わかっているのだ。




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テーマ : 生涯教育
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tag : 本当のこと 教育 政治 社会

(隠す

先日、支払のための現金が必要になったので娘から借りようと交渉したが「いや。」と断られた。
娘は、アルバイトしたお金を毎月貯金していたはずなので(貯金するといつも言っていた)持っているはずなのだが、なぜか頑なに「いや。」というばかりだ。

私は「1週間後には返すから貸してほしい。」と交渉してみたが娘は「いや。」というばかりだった。
「もっているお金を今だけ貸してよ、お願いします。必ず返すからね。」と言っても「いや。」というばかりだった。
いつもなら、なんということなく貸してくれるのだが・・・。
そして、だんだん娘は不機嫌になっていった。
う~ん?なんかおかしいぞ。

「もしかして、お金がないの?」というとますます怒った風で「あるけど、いや・・・。」
「あるんだったら、頼むから今だけ貸してよ、お願いします。」
私が執拗に言うと「いやゆうたら、いやや」。とますます機嫌が悪くなる。
「なんでいやなん?」というと、娘は黙ってしまった。


結局、娘は貯金していなくて、お金がなかったのだ。
私に「バイト代を貯金する。」と言ったのでそれをしていないのを隠すために、怒ったり、不機嫌になっていたのだ。

3年前の私は「貯金をする。」と言っているのにしていなかったら、娘を叱り飛ばしていた。
このことが娘には残っていて「私に怒られる。自分は悪いことをしている。」と思っていたのだ。
だから隠そうと必死だった。
必死に隠そうとすればするほど、娘の言動がおかしくなっていたのだ。


今の私は「バイト代は、娘が働いて得たお金だから私が口出しできるものではない。親だからといって娘にその使い道まで指図できるものではない。娘がどうするかを決めればいい。」と思っている。

娘の今回のような行動は私が今まで娘にしてきた教育の結果でもある。娘が隠しているのではなく私が隠すようにさせてしまったのだ。
また、それを受け入れているのは娘なのでどちらがいい、悪いの判断はできない。
どちらもの思いが重なって「隠す」という行動になっているのだ。


娘は、最初バイト代を貯金すると決めていた。けれど途中でそれが今はできないと思い、貯金しないという選択をした。このことも娘が決めたことだった。それ自体に何の問題もないのだ。

しかし娘は「貯金ができないことを悪いことをしている」と思っていたのだ。

私たちは、何か自分に都合の悪いことを隠そうとすると娘のような行動をとる。
これは「自分で自分のしていることを悪いことだ」と思っているからだ。
行動自体を価値判断して自分で自分を苦しくさせているのだ。

娘は「これでいいのか、こんなことしていていいのか」という思いがあったのだ。
その思いを残したまま次の選択をした。

だから私が「お金を貸してほしい。」というとお金がないこと、貯金していないことを隠した。

「私に怒られる。悪いことをしている」と思っていた。
娘には自分がとった選択に対しての後ろめたさ、悪さというのがあった。
隠そうとすればするほど自分の中に不安が広がり、それが怒りに変わり、ますます自分が苦しくなっていたのだ。

それは娘がこれからやりたいことのために必要だからという理由で選択したのだ。
けれど、途中でその選択を変えた。貯金することができなくなった。
だから「今は貯金しない」と決めたのだ。

けれど、娘は最初に選択した思いを残したまま、それをできないことは「悪いこと」「×」だという思い残したまま次に出てきた思いを選択をしている。それが自分の素直な気持ちだと思っていた。

けれどそれは違っていた。

「悪いことをしている」つまりは、自分の中にせんたく(洗濯物)を残したまま次のせんたく(洗濯)をしているので前のせんたく(洗濯物)が残ったままの状態でせんたく(洗濯)してしまっているのだ。

だから、最初のせんたく(洗濯)が出来ていないことを私に触れられたときに反応する行動に出たのだ。
そのせんたく(洗濯物)に触れられることを恐れて隠そうとしていた。
貯金していないことを私に言えなかったのだ。

自分の選択したことを変えるのも自分の自由だ。
だから自分が「これでいいのだ」と思っていれば何も問題はなかったのだ。

隠すということは、自分でそのことが悪いこと、「×」と思っているからとる行為だ。
なんとも思っていないことは隠そうともしない、隠す必要がないということだ。
隠す行為をするということは、何かを誤魔化している自分のことを知っている、判っているということだ。

どんな選択をしてもそれが自分の思いに素直で正直であるなら、その選択に「○」「×」の判断をつける必要などない。隠す必要はないのだ。
自分がその選択にオッケーを出せばいいだけなのだ。



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テーマ : 生涯教育
ジャンル : 学校・教育

tag : 隠す 現金 貯金 バイト 執拗 交渉

(インフルエンザ

【 大阪府内で、インフルエンザが例年より2カ月も早く猛威をふるっている。すでに学級閉鎖が相次ぎ、国立感染症研究所感染症情報センターによると、府内の患者数は今月2日現在、全国総数の4割を超える214人。台風が今季一度も本州に上陸せず、空気が乾燥していることが原因との指摘もあるが、なぜ大阪だけ際立って多いのかは謎のままだ。今後、大阪での流行が周辺に広まる可能性もあり、専門家は警戒を呼びかけている。(産経新聞)】


私が子どもの頃にもインフルエンザというものがあった。
私の認識としては、3日ほど寝ていれば回復したように思う。

なんで今こんなにも恐れられているのか。

確かにインフルエンザに罹るとなんともいえないダルさやしんどさがある。けれどずっと続くわけではなく、安静に寝ていれば治るのである。
それを自分の都合で早く治したい、罹らないようにしたいと避けようとする。そのためには、罹らないための予防や強制的に菌をやっつけて治すための研究をどんどん始めていった。
避けるためになんとかしようとばかりしているのだ。

結果、よく効く薬ができ、予防のための注射ができた。

で・・・インフルエンザは、撲滅しないのはなぜ。

それどころか、どんどん、悪化していっている。
どんどん、菌が強くなり、どんどん広がっていっている。
いたちごっこだ。

これって、おかしい。

人類は、進歩と発展しているらしいけど何ひとつ解決、よくなったことがないのだ。
進歩に見せかけて、発展と見せかけて、躍らされているのだ。

こんな簡単なことがわからない。
いや、わからないのではない。
もう気がついている。自分で止めることを避けているのだ。
ここでも避けている。

そうすべて避けてきた結果が今の世の中だ。
誰かが止めてくれる、誰かに止めてもらいたいのか。
虫のいい話だ。

気がついているからこそ
「昔はよかった、こんな事件や事故なんてなかった。いつからこんな風になってしまったのか」と嘆いているではないか。
「わかちゃいるけど、やめられない」か。



世の中の問題とされていること、すべてどんどん大きくなっていっている。
起こった出来事に対処すればするほど、広がって、大きくなているのだ。
避けることは、できないのだ。

今更、この便利、安全、快適、になったと思い込んでいることをやめられない。
今止めたら、今まで積み上げたものが台無しになる。
また、避けることを選択するのですか。

今まで積み上げたものは、幻想です。
安全、快適、便利となったと思い込んでいるだけだ。
嘘や幻想は、ほっておいても自然に壊れます。これは自然の掟だ。
必要なもの、本当なものは残るのだ。それも自然の掟だ。


自然がいい、自然に生きたいと思っている、言っているのなら、そちらに向かっていけばいい。
簡単、シンプルだ。

それが全く逆さま、いかさまな方向に進んでいっている。
自然は、甘くはない。
自然にきたものを、避けずに受けていくこと。避けるためにあれこれ画策することはないのだ。
やればやるほど、悪化していっている。このことは、もう判っている、知っている。
「・・・でも、だって・・・」と引き伸ばしているだけだ。

原始時代にもどり、電気やガスを使わず、自給自足にすればいいといっているのではない。

ただ、今までの常識、当たり前で動いている自分の思考、視点をいったん止める、変えてみることをしていくだけだ。


今のまま、やり続けることを、私は止めました。

おかしいことをおかしいと素直、正直に言い、行動にすることだ。
自己責任しかないのに、自己責任って言ってることがおかしいのだ。

自分の信じた路が「真実一路」
これしかないのだ。

起こった出来事を避けようとせずに自分ですべて受けとめる。
それは事故や事件、病気すべてひとつすべて繋がっているのだ。
何一つ分けることは、できない。何一つ人任せにはできない、自分のことだ。



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tag : インフルエンザ 予防注射 大阪 猛威 安全 快適 進歩 発展 便利 いたちごっこ

(すべて逆さま、いかさま。

世の中で起こっていること、やっていることすべて逆さま。

すべてと言ったらすべてだ。自分も含めてだ。自分を外すことはできない。

自分だけ都合よく外すなよ。

自分のやってること、言ってること、すべて逆さま。

真実なんてない。

いい人なんていない。

人のためなんてない。

楽しい、嬉しいなんてない。

光、善なんてない。

世の中、闇、悪だ。

「そんな、夢も希望もないことを言うな」
「夢や希望がどこに、何にあるというのでしょうか」


すべて知っていて知らん振り、見てみぬ振りしているのだ。
自分に都合悪いものに蓋をしているのだ。
自分が不利になることを避けているのだ。

知っているからこそ、避けれるのだ。
知らないこと、わからないことは、避けようがないのだ。

善い人ぶってる、天使ばっかりが評価されて、悪は排除、やっつけて抹殺してしまう、教育だ。
なんで善くて、なんで悪いのか、なんて関係ないのだ。
人のため、世のためと言っていれば大満足だ。

「いや、そんなことはない。私は自分の家族、子ども、周りの人のことも考えている」
「面倒みているし世話をしている。自分のことなんて、自分だけよければいいとは思っていない」

じゃあ、面倒なこと、世話も全部すべて見てください。
周りの人へ絶対に迷惑かけないようにしてください。

それは、無理だ。自分の出来る範囲でしかできない。出来る範囲でしかやらない。

「自分が損しないように、自分に迷惑がかからない範囲であなたの世話してやる、感謝しろよ」ということ。

結局、人のことなんて考えてない、どうでもいいのだ。
「自分のことを確保して安心、安全になっていたら、助けてやってもいい」のだ。

自分に都合いい、使えるやつだけにいい顔してるだけだ。

すべて自分に都合の悪いこと、嫌なことを見ないで、都合よく、好きなこと、嬉しいこと、楽しいことだけ考えていこう、思うようにしようとやり続けている。

それをすべてうまくいってると思っている、思い込んでいるだけだ。


おいしいもん、好きなもんばっかり食べて、あと残ったのは、まずいもん、嫌いなもんだ。

いらないもん、嫌いなもん、悪いもんは、捨てて、自分の前からいなくなればそれでおしまい。

それを処理しているのは、誰ですか。誰にやらせているのですか。

自分が損しなければいい、自分だけなんよ。
どんなに表向き人のため、家族のためって言ったって自分のことしか考えてないってこと。

自分の目の前にゴミ処理場は作られたくない、火葬場も作るな。
「自分がどんどん出してるゴミは、ちゃんと処理しろ、死んだら焼け」と言ってる。
だけど自分のところで、やってもらったら困る、自分と関係ないところでやってくれ、つくってくれ。

めちゃめちゃ。

すべておかしい。

すべて嘘。

今の世の中

すべて逆さま、いかさま。

それを誤魔化すためにすべて動いている。

知っている、わかっている自分が苦しくなっている。
ラクになろうとすればするほど苦しくなっている。

もう止めにしよう。もう止めろ。もう止めた。

誰でもない自分が止めるんだ。

自分の責任逃れをみんながやり続けていけば、とどのつまり自分に必ず返って来る。
逃れようがないってことだ。引き伸ばせば引き伸ばすほど、反動が強くなる。苦しさは増すばかりだ。

「私もそう思っていた、今言おうとしていた、今やろうと思っていた」
後だしジャンケンはもうやめよう。
おしまいだ。



すべて逆さま、いかさま。

もう自分の思い、考えを誤魔化さないで、自分の思うとおりにやればいいだけなのだ。
やってるつもり、やってる振りは、やめるのだ。
自分に素直に正直に、人のことなんて関係ない、考えない。
自分のことを考えればすべてうまくいくのだ。

中途半端に人のことを考えないで、心配しないで、世話やかないで、自分のことを一人一人がやっていけば、すべてうまくいくということだ。

自分のしたこと、思ったことの責任は自分しかとれない。人のせいには、できない。
すべては、繋がっているのだ。
自分のことをすることが、人のことをすることになっている。
あえて人のためなんて言わなくていいのだ。すべて同じことだ。

「自分の尻は自分でちゃんとふけ」ということだ。


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tag : 逆さま 如何様 天使 ゴミ処理場 火葬場 中途半端

(親と子の関係。

親と子は、いつも上と下という上下関係でいる。
この関係が続いている限り何も変わらない。
本当は、上下関係はないのだ。
親と子の関係は、対等なのだ。


昨日、娘が深夜2時を過ぎてもバイト先から帰宅しなかった。バイトは22時には終わっている。
何の連絡もないので、私の方が電話したが留守電になったので「はよ、帰って来んか~!何してる!!」と入れておいた。

20分ぐらいして帰宅した。どちらも何も言わなかった。
私は、娘が帰ってくればそれでいいし、娘はちゃんと帰ってきたのだから何も今は言うことはない。
私も娘も眠たいのですぐに寝た。

今朝、バイトが10時入りらしく娘は、自分で起きていた。
昨夜のことは、娘が「電話くれたけど、なんか用事?」と聞いてきたので、私は「遅くなるときは、電話してや、心配してるからな」と言うと、「ちゃんと帰って来るし、朝はちゃんと起きてバイトいくし・・」と言っていた。
確かにそうやね。自分でとった行動に責任とってるよね。


朝は、前日いくら遅くなったとしても私は起こさない。
娘に限らず子どもを私が起こすことは、今はない。
自分の責任で起きている。
自分の事は自分で決めているのだ。
前日どんなに遅くとも朝、自分で起きる。自分のことだから当然だ。
ただ頼まれたときは、起こし役を引き受けることもあるが、それも私が起こして起きなければ自分の責任であると言ってある。

3年前までは、私がすべて起こしていた。私が彼らが遅れたりするのがいやだったから、彼らを起こしていた。
早く起きるために早く寝ることも強制していた。
だから、その当時の私の一番発していた言葉はおそらく「早く早く・・・。」だったように思う。

私も忙しかったし、子どもは急がされてばかりだった。何をやってんだか・・・。

子どものためがなかったとは言わないが、やっぱり私がいやだった。結局、私のためだった。
私が周りの人に迷惑をかける、つまりは私が悪く思われるのがいやだった。
遅刻する時間にルーズな子どもにさせたくなかった、いやそんな子どもの親だと思われるのがいやだったのだ。周りにどう思われるかを気にしていた。すべてに対してその視点で考えていた。

私は、子どもの意思、考えなどをすべて無視していた。子どもから考えることを奪っていたのだ。子どもがどうしたいかなど関係なかった。

今は違う。
すべて子どもに任せている、子どもが決めている。
私も、自分が出来事に対して感じているまま、素直、正直に向き合うことに視点を合わせている。周りがどう思うかは、関係ないのです。
親としての責任を放棄しているのではない。責任はすべてとる。私は子どもを信じているだけだ。


今回のことでは、私は深夜帰る事が悪いことだと決め付けていない。
今までの常識で出来事の○、×判断はしない。
「常識で考えて、深夜まで帰らないのは善くないことだからやめさせるのが親としての義務でしょ」といわれるかもしれないが、私はそうは思わない。
それも娘の体験、経験することなのです。娘は、やってみて自分で確かめているのです。

深夜だから危険、昼間なら大丈夫、家にいれば安心、大丈夫というものではない。
私は、子どもにずっとついていれるわけではないし、たとえついていたとしても、安心、大丈夫だとはいえない。
娘の選んだ行動を止めることは、今の娘の体験、経験を私が奪うことになる。
娘は自分で考えて行動しているのです。

私のとった行動は3年前と形は同じではあるが、私はその出来事に対しての心、視点がちがっているのです。
けれど、親としていつもなら帰宅している娘が帰宅しないことに対しての心配はある。
ただそれだけだ。
だから、娘が無事に帰宅すればそれでいいだけなのです。

そして、今後の行動で私が思っていること「遅くなるときは、電話をしてほしい」ということを娘に伝えればいいだけである。
選択は、娘がするだけだ。


親と子の間には、色々な出来事が日々ある。

それを親が自分でどう感じ、それを正直に素直に表現していくだけのことです。
子どものことではない。出来事は、それを目の当たりにしている親のことなのです。
今、起こった出来事を親がどう感じ、どう捉えているかに視点を向けるためのものなのです。
子どもの問題ではない。

子どもが色々体験しようとしていることを事前に止めることなく最後まで看守る。
自分の身を守るために、子どもの経験を奪ってはいけない。


先に手を指し伸べて親がラクになろうとしない。
子どものためではない、親がラクになるために子どものやることに制限、支配しているだけのことだ。
子どももまた親の弱みを利用して、使っているにすぎない。相互依存である。
気付いた親がそれをやめなけらばいつまでも続きます。


本当の親の愛は、すべて子どもがすることを看に止めて、最後までやらせることだ。
それは、自分の体験、経験から「それをしたらこうなってしまうかもしれないと思った」としても、辛抱する。親は、子どもを最後まで信抱、信じて、抱くだけだ。

親は、それを避けないで俟っているだけだ。

世の中の常識で考えて善くないことをしたとしても、親はその出来事に○、×つけずに、子どもを看まもることができてこそ親といえる。

自分の身を守るために、子どもの行動をやめさせたところで、何も変わらない。
子どもは親をいつも観ている、知っている。

いつまでも親が殿様で、子どもが家来、子どもが殿様で、親が家来であってはならない。
そんな関係はおかしいのです。
だから今、親子関係がおかしいのです。
これをやめない限り今の世の中のおかしいことが続きます。
親子関係は、社会の関係、すべての関係に繋がっているのです。

子と親は、お互い対等です。すべて人は、対等です。

真(信)の親子関係に気づく(築く)ために「おやこ屋」で話しませんか。
今、あなたの体験、経験してきたことをすべて教材にしてあなたのステージを創めるときです。



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テーマ : 子供の教育
ジャンル : 学校・教育

tag : 親子 対等 台頭 体験 経験 出来事 殿様 家来 常識

(何のために集まったのか。

「それでもプロか」校長研修会で“喝” 大阪府教委

陰山氏は、中学校の地理で教えているヨーロッパの国の数を質問。大半の参加者が間違えると、「だからダメなんです。プロたる教師がそんなことを知らずして世の中がまともに動くはずがない」と語気を強めた。
 さらに、学校をとりまく現状について「金を出さない政府、しつけの悪い親、無責任なテレビ局…。なぜ教師が怒られないといけないのか」と述べ、「皆さんが学力の数値を落としているから反論できない。目くそは鼻くそを笑えないのです。この悔しさを晴らしましょう」と呼びかけた。
小河氏は「子供たちが荒れる理由は基礎学力の崩壊にある」と持論を述べた。


「はあ~・・・、何言ってんの!」

全国平均でみて成績が悪いことがいったい何の問題があるのか。
問題なのは、子どもの成績とちがうやろ、あんたらの視点のずれだ。

「悔しさを晴らすって」何。
自分らのプライド、腹いせのために子どもに勉強させようとしているのか。
学力の数値が落ちていることがそんなに問題なのか。

そもそも今やってる学校での教育が必要ないってこと。
ヨーロッパの国の数、覚えたっって、忘れてるってことは、必用ないってこと。必用なかったってこと。
「必用あることなら忘れないって。」

そんな必用ないことばっかり学校で教えてるから子どもら学校で勉強しないのだ。学校でしなくたって塾に行けば、受験に出ることだけピックアップして効率よくわかりやすく教えてくれる。
次の学校に上がるための詰め込み、暗記教育ばっかりやってるのだから。
成績重視じゃないっていくら言ったって、成績が悪かったら先に進めないシステムになっている。

塾のシステムを取り入れて「夜スペ」ですか。
なんで、学校で塾やるの。いっそのこと学校を塾にしたほうが早いんじゃないの。
中途半端なことしてないで学校教育の場で今のシステムすべて変えればいいこと。
「公立学校では難しい、できない」って言って「こうすればいいのだとわかっているけど、できない」って・・
やる気ないってことね。


「普通に考えて、同じ年に生まれたからといて同じように教育受ける」というのは、おかしいことだ。

「一人一人の個性教育」というなら、一人一人教材が違って当たり前。それをみんな同じ教材で詰め込むことをやり続ければ、どこかにひずみがでてくる。

成績さえよければ、ものが言えるというのか。先生が自分の考え、意見を言うのに子どもの成績が関係あるのか。
子どもをだしに使うのもういい加減やめろよ。
先生がなんだかんだと理由をつけて自分の思っていること言わないから、子どもが言うわけない。
子どものほうが先生のしていること知っているから誤魔化しがきかない。
子どもが色んなことやって見せてくれてる。

金を出さない政府・・・金がなかったら教育できないってことか。
金が必要と思っていたらいつまでたっても真の教育なんてできない。
金を稼ぐために先生というものをやっているから、自分の身を守るために自分の思ってることが言えなくなっている。
言えないのではない。言わないのです。言えば自分が損をするから。


 講演後には質疑の時間が設けられたが、参加者から挙手はなかった。小学校長の一人は「陰山委員の主張は確かに正論と思うが、厳しい言い方がまるで知事のようだった」と話した。

だから、何。

子どもの成績うんぬんよりもこの集まりで、誰も質疑応答や意見を言わない校長連中のほうが問題だ。
なんのために、集まっているんや。

で、何・・・影でインタビューされたら、「言ってることは正論だが、言い方が知事のようで・・・。」って何が言いたいの。

言ってること聞いていたのか。あんたの感情を聞いてるわけではない。

「正論だけど言い方がわるいから、聞くことできない。そういう風に教育していって欲しいなら、私らを立ててものを言えってことか。」

学校の長といわれる校長が集まってこの程度か。いや、校長だからこうなのか。
集まって、色んな議論が出ないってことはみんなどうでもいいてことね。

教育委員会主催の研修会やから、反論や思うことあるけど、それをヘタにいうと自分の立場が悪くなるってこと。
じゃあ最初から、研修会に参加しなくていいやん。
いや、教育委員会が開いているのだから、出席しとかないと自分の立場が悪くなる。動員、数合わせのために参加しただけ。

結局、学校教育なんてどうでもいいのだ。子どものことなんて考えていない。

会で何も発言がないことがすべての証明だ。

「講師できていた先生が言ってることが正論だとわかるけど、今の教育の現場では難しいとか」真剣に考えているんだったら、意見が出てくる。
それがないことがおかしい。

そんな学校に私たち親は子どもを行かせているのです。
私も行かせていました、行ってました。

今回、会に参加しなかった校長もいることだろう。会に参加するどころではない。
日々教育現場で自分の信念で子どもに接していればこんなくだらない会に参加できなくて当然であろう。また参加する暇などない。
教育現場の先生も同じです。

自分が真剣にやればやるほど疲れていく、抵抗が大きい。
病に倒れる、希望をなくして現場をさる。
真剣に考えれば考えるほど、教師なんてやってられない。
今の学校教育に意味ないこと、おかしいこと、変なことに気づく。
気づいて、なんらかの行動に移すと、自分の身を守るためにだけ動いている人からの攻撃を受けてしまう。

お金がないと生きられない、働かないと生きられない、学校にいって基礎学力をつけないと生きられない・・・すべて幻想です、まぼろしです。それを今まで信じてやってきたことがすべての間違いの原点です。自分が今まで思っていた、信じていたことが本当かどうか確かめることをしていくときです。
それが生きる力です。

学校で「生きる力」をつけると声高にいっているが、それって今みんな「死んでる」ってこと。
今は、学校にいって生きる力ではなく、息を潜めていることを教えられているだけだ。

もう、限界にきているのです。
流れを止めて、変えていくのは現場の先生です。親や子どもも同じです。

本当の生きる力をつけるのは、今の教育システムではできない。
戦後の洗脳教育は、もう終わりです。

本当の意味で一人一人が自分で自分の教育やり直しです。
教育は決して受けるものではなく、自分でやっていくのです。

それがわかったなら、何も教わらなくても自分の思いや感じたことを素直に正直に言えばいいだけだ。
そこに知識や教養は、いらない。
難しいことをいう必要はないのだ。



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テーマ : 教育って何だ?
ジャンル : 学校・教育

tag : 大阪府教育委員会 蔭山 洗脳教育 夜スペ 校長 知事 正論 崩壊

(選択の自由

昨夜、次男の中学校の先生が訪問された。

学校の前期が終わり、次男の成績表を持って来られた。
次男は、5月に転校して来てから登校したのは、1回だけなので授業もテストも受けていない。
「成績のつけようがないのです」と先生は言っていたが成績表があり成績がついていた。

成績は、オール1であった。

おかしいな話しだ。何も学校が評価できるものがないのに成績表ができあがっているのだ。
全く学校に行かない子のオール1と学校に行っている子のオール1の違いはどこにあるのだろうか。

何のための成績表なのかな。
「オール0とつけることできないからとりあえずオール1」ということか。
成績表に意味があるのだろうか。



先生は次男に「学校に来てみないか」と話していましたが次男は、全く行く気がないようでした。

今の次男は、学校というものに全く興味がないのです。

また学校に行くということは、学校のルールに従い学習するということだから、今はそれを次男は選ばない。

けれど、どの学校の先生もそうですが「とにかく学校に来て見たら」といいます。

先生はとにかく学校に来れるようになることを最初は望む。多くの不登校で悩んでいる親御さんもそうだと思うが、まずは学校に行ってくれたらと願うが、いざ学校に行くと学校のルールに従うことを強制するようになる。

「とにかく来てみたら」と言っているのに、いざ学校にいってみると「授業をちゃんと聞きなさい、服装や頭髪、態度など」次々に規制を増やしていくのです。
それを次男はわかっているのです。
次々にハードルを増やしていくのです。それが教育、学校というものです。枠のなかに収まるようにしていくのです。

学校としてはごく当たり前なことです。学校に来た以上、そのワクの中のルールを守らせようとしているのです。
次男に学校のルール違反を許すと周りの子らに示しがつかないということです。

だから今次男は、学校に行くことを選ばずにいます。それは変わるかもしれないし、今のまま行かないで終わるかもしれない。

先生は、「あとで後悔することのないように、やっとかないといけないことがある」といいます。
「みんながやっていることを今同じようにしとかないと後悔することになる。学校で最低限の勉強をしていないと仕事に就けなくて食べていけなくなるから」と・・・。
これは、みんなが考える常識ですが本当ですか。

次男は、今自分の思っていること考えていることを素直に正直にやらないことの方が後悔することになると思って、今学校に行かない選択をしているだけだ。


今までの常識で考えて、次男はとても不利ですがそれでも彼は、この選択をしているのです。

「親ならわが子が今までの常識で考えて違う、間違ったことをしていたら止める、やめさせるのが義務でしょ」といわれる。

けれど、それが本当に間違っているかなんてわかりません。証明できません。
今までの常識で考えることの出来ないことが次々起こっています。
次男がとってる選択も先にどうなるかなんてわかりません。
それを親として、本当の意味で見守っていくことが役目だと思います。

今の次男の思いを止めさせることが、病めさせることになる。

不登校児が病といわれるのは、このためです。
学校に行かないのは、病ではなく、ひとつの選択なだけです。


「周りの子が高校、大学、就職という風になったときに後悔しないように」というが・・・。

次男は今周りの子と自分を比較する行動を一切とらない選択をもう既に始めている。

その選択をしている次男が周りの子と同じようにしないといけないとは、思わない。

私を始めとするいわゆる今まで普通に教育を受けてきたものにとっては、周りの人がどうするか、周りの反応によって左右されて、悩んできた。


周りと比べたり、周りに合わせたりしている限り自由はないし、今の後悔をずっと先まで持ち続けていくことになる。
すべてが後悔になる。

今、自分の選択で自分が思い、考えて、決めることが自由にできる。
選択の自由は、自分にあるのです。

選択を不自由にしているのは自分なのです。

後悔は、過去のものではない。
今の後悔がすべての後悔なのです。

自分に出てきた思いをやらずに後悔するよりも、自分で決めて航海していけば、色々な未知が開けるというものです。
自分の思いを公開していけば満ちるということです。

航海は、思い立ったときにする。

真実は自分がしていることなのです。
自分の真実なこころ、素直、正直なこころは自分には誤魔化しが利かないということです。

選択の自由、選択の不自由を決めれるのも自分なのです。

今、自分が思い、考え、決めること。

真実はひとつ。

真実は、自分が知っている。
自分が知っている、わかっていることが真実です。

それを気づかせるお手伝いを「いちみの教室」では、しています。


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テーマ : 生涯教育
ジャンル : 学校・教育

tag : 選択 自由 不自由 学校 中学校 成績 成績表 真実 教育 後悔

(迷惑

よく「人に迷惑をかけないようにしなさいよ」と親や先生に言われてました。
これは、誰もがいう常識中の常識で当たり前だというものなのか。
人に迷惑をかけないようにとはいったいどんなことなのか。
人に迷惑ってどんなこと。

人の邪魔にならないように、人が何を思っているかを常に考えて、人と同じように人と争わないよう
に人を傷つけないように常に周りに合わせていく。
これが人に迷惑かけないように生きること。

そんな極端なことじゃなくて、自分がされたらいやなことは最低限度しないこと。
「されたらいやなことなんていっぱいあるし、じゃあ、なんにもできなくなるってこと。」
自分にとっての迷惑ってことやね。

では、何故そういう生き方をさせようとするのか、選んでいるのか。

お互いが強制しあって縛りあっているだけだ。
なぜなら、お互いが枠の中から出て行かれては困るからだ。
親や先生は、子どもが自分の考えている枠から出て行かれては困る。
統制がとれない、管理できなくなる。

迷惑だっていってる人は自分に都合悪いこと、自分がされたら困ることを止めるために使っているだけのことだ。親や先生は迷惑をかけないようにといっているのは、親や先生にとっての迷惑なのだ。
すべて自分の価値判断で決めているだけのことだ。

迷惑だからといって自分の行動に規制をかけているのは、自分でその行動に対して責任をとるのを避けたいからやね。親や先生の言うこと迷惑だということをしなければ、自分のことを守れるっていうことやね。



迷惑かどうかは、やってみないとわからない。自分が迷惑だって思っているだけのことかもしれないし、自分でそう思いこんできただけかもしれない。
自分にとって都合悪いから、やらないでおこう、だから自分以外の人がやるの止めるために、みんなが迷惑だからやめろと言っているだけなんだ。

「こうしたい・・・。ああしたい・・・。」と思うんだったらやってみたらいい。
「でも・・・だって・・・それをしたら、人に迷惑になるし、できっこないい・・・。」と止めているのは、結局のところ自分が決めているってことだ。人に迷惑がかかるって人の責任にして自分ができない言い訳に都合よくつかっているだけだ。

実のところ、人に迷惑なんてなくて自分に迷惑だってことだ。それを都合よく人に迷惑かけるな、常識を守れとお互いを牽制しあっているだけのことだ。

人に迷惑かけられたと人に責任を押し付けているだけのことだ。

「これをやったら迷惑になる」のではなどと考えずにやってみたいことを素直にやてみたらいい。自由に素直に正直にやってみたらいいだけのことだ。やってみないと何もわからない、何も確認できない。

「そしたら自由にやってみたいことが人を殺すということでもか・・・。」という人がいるが、自由にやっている人の思考に人を殺すというのがでてくるだろうか。

人を殺したいというのは、自分にとって何か不都合や不自由があるときに直接その本人に懐いたり、他の人、誰でもいいから腹いせに殺すという思いが出てくるだけのことではないのか。
自由にやってる人には、関係のないことなのだ。



迷惑なんていう枠はもともとないのです。

自分の責任逃れのため都合よく使っているだけなのです。

自分ですべて責任をとるのであれば、人に迷惑がかかるから、かけるからという言い訳で自分を規制する必要がないのです。

すべては、自分が創りだしていることだ。
迷惑という枠の中に入って責任転嫁ゲームを続けていても何も変わらない。ゲームを止めれるのは、自分だけだ。



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テーマ : 生涯教育
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tag : 迷惑 自由 不自由

Dプロフィール

Author: 林 一美
 昭和35年4月生 東京都出身
 大阪育ち 京都在住

幼稚園、小学校講師、塾経営をやってきました。
なにをしても、どこにいても、私の世界は、私の世界。

おかしいと思ったことは、おかしい。
変なことは、変や。

誰が何と言おうと、私は私のみちをいきる。
それが私にできる。ただひとつのことや。

実は誰も何も言っていない。
すべては、私が言ってることやんか。

私はあんた、あんたは私。

さかさま。おしゃかさま。
かみもほとけも。みな、おんなじ。

まっさかさまの、だいどんでんがえし。

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